夢幻恋奏

第一話 夢(1)

 昔から、同じ夢を、繰り返し繰り返し見る。
 それは決まって、一人の女の人が泣いている夢だ。
 その女の人は、部屋の隅で、誰からも見られないように、ひっそりと隠れて、声を殺して泣いているのだった。
 どうして泣いているの、と、聞こうとしても、彼女は泣くばかりで、答えらしき答えをくれない。そして自分もまた、そんな彼女に質問したくても、できない。夢の中だから当然なのかもしれなかった。
 彼女は一体、誰なのだろう。
 そして彼女は、どうして、いつも泣いているのだろう――?


 グラスを磨きながら、カノンがため息を落とすと、それに目ざとく気づいたらしい食堂の店主に声をかけられた。
「あら、カノン。またあの夢でも見たの?」
 カノンが声のほうへと目を向ければ、そこにいるのは、いつもの通り、麗しい美貌を持った女の人だ。波打つ髪はカラスの濡れ場のように深い漆黒で、白い肌によく映える。瞳も同じ黒なのだが、そこに宿る光は、さながら無数の星が輝く夜空を思わせる。それだけではない。人形かと思うほどに整った顔立ち、そのぷっくりと膨らんだ紅色の唇に浮かべる微笑は、老若男女問わず、店に来た客全員を魅了する。
 もちろんカノンも、彼女に魅了される一人だ。
 カノンは、今日もきれいだなあ、と、見惚れながら、そうです、と、頷いた。
「子供の頃から見てるのよね?」
「そうなんです」
 重ねて問いかけられて、カノンは、これにも素直に頷いた。
 黒髪の彼女はオリビアといい、この食堂、『花見鳥』の店主だ。いわばカノンの上司にあたるのだが、彼女とは二歳しか離れていない。もともと家が近所で――というより、カノンが生まれ育ったこの村、アステルマは、村人全員が全員のことを知っているというような田舎だ。そのため、子供たちは全員きょうだいのように親しく育った。カノンとオリビアも例外ではなく、姉妹のように育った。
 オリビアが二十歳の時に両親が経営していた『花見鳥』を継いだとき、カノンはオリビアから声をかけられたのだった。あなたも二十歳になったら、うちで働かない? と。もちろんカノンは二つ返事で承諾した。
 カノンとオリビアが住むこのアステルマは、村人のほとんどが農家で、何かしらの農業を営んでいる。そのため、裕福な家があるとは言えないものの、食べるものに困ることもなく、穏やかに暮らしていけている。カノンはそんな地元が好きだった。
 しかし、やはり田舎というべきか、娯楽と言えるものがほとんどない。それを見越したオリビアの両親は、それならうちだけでも食堂を開こうと一念発起したのだった。最初は倉庫の中でささやかな料理を振舞うだけの小さな店だったが、娯楽がほとんどなかった村で繁盛しないわけがない。時間が経つにつれて、オリビアの両親が営む食堂は、いつしか、大きな店構えを持つ食堂へと育っていった。
 『花見鳥』が大きくなったのは、オリビアの両親の努力の賜物だけではない。隣町にオリビアの叔父夫婦が住んでおり、彼らが酒を含む飲み物や食べ物などの問屋を営んでいるのも大きかった。商人である彼らと手を組んだことで、酒も提供できるようになったため、料理だけではなく、酒も飲めると評判になったのだ。
 カノンも、ある程度年頃になってからは、父と兄が二人とも大工の仕事で家を空けることもあり、昼過ぎからは『花見鳥』を手伝うようになっていた。オリビアから、二十歳になったら働かない? と声をかけられたのも、そういう経緯があるからだった。
 家族以外で何でも話せる相手と言えば、カノンはオリビアと、彼女の弟であるセオドアを真っ先に挙げるだろう。村人は全員が全員のことをよく知っているものの、だからといって、誰にでも何でも話せるかと言えば、話は別だ。
 オリビアとセオドア、彼らとは、カノンも、カノンの父と兄も、家族ひっくるめての付き合いになる。家が隣同士だからというのもあるし、『花見鳥』のテーブルや椅子を作ったのも、カノンの父であるサムだからというのもあるだろう。
 カノンの父も兄も大工だ。元々、カノンの生まれた家のご先祖様は貴族の血を引く人だったそうだが、それも何百年も経てば、何の価値もなくなる。食べるのに困るようになって、大工という仕事を選んだのだと聞いている。
 技術の高さと誠実さを買われて、父の代になってからは、村の外からも注文が入るようになった。カノンの父がオリビアの父と仲が良いのもあるだろう。オリビアの父がカノンの父のことを、隣町に暮らす兄夫婦に話したのが引き金になったのかもしれない。
 とにもかくにも、そんなこんなで、カノンの家族とオリビアの家族はとても仲が良い。
 そのため、カノンはオリビアとセオドアには、昔から困ったことがあるとよく相談していた。昔からよく繰り返し見る夢のこともだ。
 だからオリビアには、カノンの溜め息の原因が、すぐさまあの夢のことだと知れたのだろう。
 カウンターの中でグラスを拭いていたオリビアは、考え込むように顎に指をあてた。
「同じ夢って、なかなか見ないのよねえ。夢って、その人の精神状態を表すこともあるって、聞いたことがあるんだけど」
 それならカノンも聞いたことがある。何かに追いかけられる夢を見たときは、何かに追い詰められている状態が多いとか、そういうことだろう。
 しかし、カノンは――。
「お母さんが死んでからもう十年ですよ? あのとき、十分泣きましたし」
 そう、カノンは、母親を十年前に亡くしている。十歳の時だった。母は特に身体が弱いというわけではなかったが、何年かに厳しく寒い冬が来る。十年前の冬もとりわけ厳しい寒さで、風邪を引いた母は、それをこじらせて肺炎になってしまったのだ。
 カノンは葬儀の時は涙を堪えていたけれども、葬儀が終わった後、こっそりと部屋の中に入ってきたオリビアとセオドアに、無理しなくていいよ、と慰められ、疲れるまで泣き続けたのだった。
 その時、ふと思ったのだ。
 夢のあの女の人も、誰かを亡くしたから、泣いているのだろうか、と。
 しかし、その後も、同じ夢を繰り返し見るので、たぶん違うなと確信した。
 本当に、あの女の人は、どうして泣いているのだろう。
 それさえわかれば、もう同じ夢を見なくて済むかもしれないと思うのだが、あれこれ考えてみてもさっぱり分からない。
 ただ――。
「セオドアは心当たりがありそうだったのだけどね。あの子、何か知ってるのって探りを入れてみても、のらりくらりはぐらかすし」
 困ったような笑顔でそう言ったオリビアに、そうなんですよね、と、カノンも再度頷いた。
 そうなのだ。オリビアの弟であるセオドアも、カノンの夢のことを知っている。カノンがオリビアとセオドアに初めてあの夢のことを話したのは、だいぶ昔――物心つくかつかないかの頃だったか。嫌な夢を見ないようにするおまじないがあるのよ、と、きっかけは、オリビアのそんなたわいない話だったと思う。夢という言葉に食いついたカノンは、同じ夢をずっと見るのだと、夢の内容も何もかも話した。とはいえ、同じ女の人が同じように泣いているのだと、それだけだったのだが、なぜか、セオドアが心底驚いたような顔になっていたから、その時のことはよく憶えている。その後、セオドアが、夢の内容――夢の中に出てくる女の人がどういう容姿なのかとかを根掘り葉掘り詳しく聞いてきたから、尚更だった。
 何か知っているの、と、セオドアに聞いてみても、心底困った顔で、まだ教えられないよ、とはぐらかされた。何か知っているのは確かだが、何度聞いても、オリビアの言ったように、のらりくらりとはぐらかされるのが常だった。
「あの子がわたしに隠し事をするなんてねえ」
 ふふ、と、妖艶に笑うオリビアに逆らえる男の人はまずいないだろうなあ、と、カノンも思った。
 オリビアも言った通り、セオドアは姉であるオリビアに頭が上がらない。そのため、オリビアの言うことには基本的に忠実に従っている。カノンもオリビアの言うことは素直に聞くが、二人に共通していることは、オリビアはまず二人の嫌がるようなことは強いないことだ。そのあたりがセオドアがオリビアに頭が上がらない理由の一つでもある。
 そうだ、と、思い出したようにオリビアが、顎にあてていた指を外した。
「あの子のことで思い出したのだけどね。明日か明後日に帰ってくるそうよ」
「え、ほんとですか」
 カノンが思わず喜びの声を上げたのも無理はない。
 オリビアが二十歳になって両親が営む『花見鳥』を継いだように、セオドアも二十歳になるとまた、村を出て行ったのだ。
 セオドアが村を出て行ったのは、二十歳のときが初めてではない。彼には昔から旅行癖というか放浪癖というか、思い出したように村を出て、どこかへ出かけてしまうことがあった。ただ村を出るだけではなく、『花見鳥』を手伝い、そのお小遣いを貯めてから、出かけるのだ。そのため、両親もオリビアも、セオドアに文句は言えなかった。セオドアの切羽詰まったような雰囲気もそれを後押ししただろう。
 まだ幼かったカノンにも、村を出ていくセオドアの姿から、切羽詰まったような雰囲気、思い詰めたような緊迫感をひしひしと感じ取ったので、どこへいくの、とも、いってらっしゃい、とも、何も言えず、ただ遠目で見送るしかできなかった。
 ただ、セオドアがどこかへ出かけるのをやめたのも突然だった。セオドアが二十歳になる前のことだった。その年もセオドアは村を出て行ったのだが、帰ってくるのが早かったのだ。
「やっと、捜していたものを見つけられたからね」
 ずっと捜し続けていたものを見つけたから、もう捜す必要がなくなったのだと、憑き物が落ちたような笑顔で、彼は言ったのだった。
 彼の言う探し物が何だったのか、人だったのか、人なら誰なのか、気になったが、オリビアが尋ねても、セオドアは、「こればかりは姉さんでも言えないよ」と首を振ったのだ。オリビアに答えないなんて、と、驚くカノンの頭を、セオドアは撫でた。彼に慈しむように頭を撫でられるのが、カノンはいつも好きだった。
「その時が来たら話すよ。君が思い出したらね」
 思い出したら?
 どういうことだろうと、カノンはセオドアを見上げたが、どういうわけか、その時、彼は笑顔だったはずなのに、カノンには、彼がとても泣いているように見えたのだ。だから何も聞けなくなってしまった。
 セオドアは二十歳になると、「あっちで働くことにしたから」と、また村を出て行った。セオドアの言う「あっち」とは、たぶん、ずっと捜し続けて、見つけたものがいるところだろう。そこでセオドアは教師の仕事をしているそうだ。セオドアは勉強ができるからと、彼の両親が奮発して、村の学校ではなく、隣町の学校――十八まで勉強ができるところへ通わせたから、教師の資格も取得している。
 そのセオドアが、少し休みが取れたからと、数日間だけ、こちらに帰ってくると、オリビアから聞いて、カノンは思わず布巾を握る手に力を込めた。
 今度こそ、あの夢について、何か教えてくれるかもしれない、と、期待に胸を膨らませたからだ。
「でも、その前に、仕事しましょうね、カノン?」
 気づけば、日も暮れかけ、仕事帰りらしい男の人が何人か、店の中にぞろぞろと入ってきている。
 オリビアに言われて、カノンはハイ! と元気よく答えた後、お客さんにお水とおしぼりを出すべく、カウンターの中へ慌てて戻った。
inserted by FC2 system