夢幻恋奏

第一話 夢(2)

 翌朝、カノンはベッドの上で唸っていた。
 昨夜、酒を飲み過ぎたせいだ。
 カノンはもともと酒を飲まない。カノンの父親と兄は二人とも酒を飲むが、子供の頃から、酒を飲んでは酔っ払う父の姿を見てきたせいで、酒を飲む人が好きにはなれなかったのだ。父も、村人も、悪い人ではないが、酒を飲むと箍が外れるような人ばかりだ。そしてそういう人は、家族をはじめ、周囲の手を焼かされる。あんなふうになるなら、酒は飲まないようにしよう、と、カノンが決めたのも無理はなかった。
 そのカノンがどうして酒を飲む羽目になったのか。
 それは昨夜、父と兄と、彼らの仕事仲間が、『花見鳥』のカウンター席で、他愛もない話をしていたのがきっかけだった。
 最初は仕事の話だったのが、いつしか年頃の村人たちの話になり、そういえば結婚はしないのかという話になったのだ。
「トム、お前、もういい年だろう? 気になってる子とかいねえのか?」
「いきなり何言い出すんですか」
 トム――カノンの兄に、酒を飲んだせいで赤くなり始めた顔を向けたのは、サム――カノンの父と同い年のビルだ。彼もサムやトムと同じ大工で、同じ職場で働いている。同じ大工とはいっても、サムは監督、ビルは棟梁と、立場が違う。どちらかというとサムのほうが立場が上だが、サム本人がそういう違いを嫌うので、仕事以外ではこうして気さくに触れ合っている。
 トムは口元に運んでいたグラスをテーブルにつけてから、まだ考えてませんよ、と返した。
「カノンが落ち着いたらとは思ってますけどね。そもそも、気になってる人もいないし」
「おいおい、寂しいことを言うなよ、トム」
 ビルがばんばんとトムの肩を叩く。トムは痛そうに顔を顰めるが、ビルは気にした風もない。
 確かに、トムはカノンの二つ上――二十二歳で、もういい年だ。村の中では遅れているほうだろう。カノンも今年で二十歳になる。そろそろ結婚するんじゃない? と、村の友人にも言われているが、いまいちぴんとこないというのが正直なところだった。トムもおそらくそうだろう。
 とはいえ、カノンは、トムのことが気になっているという人を何人か知っている。彼女達から、トムに紹介してほしいというお願いをされたことがあるからだ。後で文句を言われたり、悪い噂を流されたりすることもあるから、そういうことがあったら断りなさい、というオリビアの助言がなければ、うっかり紹介してしまったかもしれない。オリビアにはつくづく助けられてばかりだ。
 ビルに絡まれたトムに同情しながらも、客が空にした食器を運んでいると、ビルの顔がカウンターに入ったカノンに向けられた。
「お前はどうなんだ、カノン? お前が結婚しねえと、トムも結婚しねえんじゃねえか。どうだ、好きな人はいないのか?」
「ビル」
 飲み過ぎだという牽制も込めてだろう、それまで黙って酒や料理を楽しんでいた、トムの隣に座っていたサムがビルを呼んだが、カノンが生まれる前からの付き合いだ。サムはこれにも気にする風はなく、変わらない調子で言葉を続けた。
「セオドアはどうなんだ。あいつとえらく仲がいいだろう?」
 セオドアといい関係じゃないのかと聞かれて、カノンは何と答えたものかと悩んだ。いや、正確に言えば、その少し前に、好きな人はいないのかというビルの質問で、どうしてか、あの夢のことを思い出したのだ。
 もしかして、あの夢の女の人も、好きな人のことで泣いていたのだろうか、と。
「お――おいおい、カノン?」
「カノン、どうしたんだ?」
 ビルとトムに慌てたように言われ、更にはサムにまで慌てたような顔を向けられたので、その時になって、カノンは自分が泣いていることに気づいた。
「あれ、すみません、わたし、どうして……」
 どうして自分が泣いているのか分からずに、持っていた食器を、一度カウンターの内側に置いて、カノンは慌てて涙を拭おうとした。しかし、拭いても拭いても、涙は止まらない。
 カノンのその様子に目ざとく気づいたオリビアが、別の席にいた客たちに一言断ってから、こちらへ来るのが見えた。
「あなたたち、カノンに何かしたの? お客様だからって、していいことと悪いことがあるわよ」
 そう言ったオリビアは笑顔だったが、怒っている時とそうでない時の違いくらいは、ビルにも分かる。そのくらいの付き合いだ。ビルもさすがに酔いがさめたのだろう、だいぶ赤みが引いた顔の前でぶんぶんと手を振って見せた。
「いやいや、俺はただ、セオドアとどうなってるのかって、聞いただけで」
「あの子なら、明日帰ってくるわよ」
「え、ほんとか? 久しぶりだなあ」
「ちょ、カノン、それは酒だぞ?」
 ビルとオリビアがのんきにも思える会話のやり取りをする横で、トムが慌てた声を出した。それも道理で、カノンは、泣き止めないならいっそ、と、酒の力を借りることにしたのだ。それでトムが飲んでいたグラスを手にすると、一気に呷った。
「カノン――!?」
 トムとサムとビルの声が重なった。
 無理もない。カノンが生まれた頃から知っている彼らは、カノンが酒を飲まないことを知っている。酒を飲まない理由もだ。だから彼らは酒を好んでも、カノンに無理強いすることはしなかった。オリビアが目を光らせているというのもあるだろう。
「ちょ、ちょっと、カノン? あなた、本当にどうしたの?」
 そのオリビアも目を丸くして、トムのグラスを空にしたカノンを心配そうに見つめる。近くの席にいた客たちも、カノンが酒を飲むというめったにない状況に気づいたのだろう、お喋りをやめてこちらを窺っているのが分かった。
 それでもカノンは答えられなかった。なぜなら――。
「……もっと」
「えっ?」
「もっと、ください! こんなんじゃ足りません!」
 そう言うや否や、空になったグラスをテーブルに戻すと、その近くにあった、酒の入ったボトルを持ち、口に運んだからだった。
「カノン――!?」
 店中に客の悲鳴が響いた。
 昨夜の記憶はそこまでしかないので、おそらく、ボトルを空にしたのかもしれないが、それがカノンの限界だったのだろう。サムやビルはボトルを二、三本は軽く開けるくらいに酒に強いが、トムは彼らの半分くらいしか飲めない。そんなトムの妹なのだから、カノンが酒に強くないだろうということは予想できた。
 いくらなんでも、急にわけもわからずに泣き出しただけにとどまらず、なかなか泣き止めないからと、近くにあった酒に頼ろうとするとは、と、カノンは反省と後悔しきりだった。しかし、他にどうしたら泣き止めるか、分からなかったのも事実だ。
 とりあえず、決めたことが一つある。酒はもう絶対に飲まないということだ。酒の味は悪くなかったが、こんなにひどい頭痛とめまいと吐き気に襲われるくらいなら、もう飲むまい。
 ただ、そうは決めても、同じように決めたなじみの村人が、また何度も酒を飲んでいるのを見ているので、ちゃんと守れるだろうかという一抹の不安もある。
 カノンがこんな状態なので、今日は店は休んでいいわよ、とオリビアに言われた。
 カノンの記憶はさっぱりなのだが、あの後、カノンは案の定倒れたらしい。そんなカノンを、オリビアが、家まで運ぶのは手間でしょうと、店の二階――二階は住居となっている――へと運ぶように、サムとトムに言ったのだった。そしてそのまま、カノンはずっと『花見鳥』の二階の部屋で寝ているというわけだ。
 ちなみに、ビルはと言えば、オリビアに小言を言われただけで済んだらしい。カノンが酒を飲む前後のいきさつを聞いて、オリビアにもどうしてカノンが泣き出したのか、よくわからなかったというのもあるだろう。そのかわり、当分酒は禁止、と言われたそうで、ビルは情けない顔になっていたそうだ。
 誰に聞いたのかというと、朝に、カノンの様子を見に来たトムからだ。一階にいたオリビアから受け取ったというお粥の入った皿を持ってきたトムに、昨夜の出来事を聞いて、カノンはビルに申し訳ない気持ちになった。
「それで、なんで泣いたのか、聞いてもいいか?」
「……わからない」
 本当に、カノンは自分でもよく分からないのだ。あの夢のことを思い出した途端に、どうして涙が出てきてしまったのか。ひとつだけわかるのは、あの夢の女の人も、好きな人のことで泣いていたのだろうということだ。
 しかし、それを言っても、兄は納得しないだろう。
 そして、兄も、あれこれと詮索するのを好まない人だった。
 トムはぽんぽんと妹の頭を撫でてから、立ち上がった。
「ま、疲れてたかもしれないな。今日はゆっくり休めよ。仕事が終わったら、また見に来るから」
「うん」
 素直に頷いた妹に笑ってから、トムは部屋を出て行った。
 それからカノンはまた眠り、次に目が覚めると、もう昼を過ぎていた。
 お腹が空いたな、と思いながら、むくりと体を起こすと、ベッドのすぐそばの小さな台に、料理の入ったお皿が置かれていた。水の入ったグラスも。オリビアがそっと運んできてくれたのだろう。
 ありがたいなあ、と思いながら、その前に出すものを出してこようと、カノンはベッドを降りた。
 用を済ませて部屋に戻り、オリビアが運んできてくれた料理を頬張っている間、何をするともなしに、あの夢のことを考えた。
 あの女の人は、好きな人のことを考えて、泣いていたのだ。それは間違いない。不思議と確信できた。
 でも、どうして泣いていたのだろう。好きな人に振り向いてもらえないから? それとも、好きになることが許されないような相手だったのだろうか?
 ――違う。
 ふいに、頭の中が別の思いでいっぱいになった。
 ――違う、わたしは、違うのだ。わたしは、偽者なのだ。だから早く、ここを離れなければ。
 偽者?
 まるで自分が全く別の誰かになった気がして、カノンは恐ろしくなり、手にしていた匙を皿の中に戻して、自分で自分の身体を抱きしめた。
 すると、より一層、頭の中によぎった思いが強くなった。
 ――ああ、でも、そうなると、あの人のそばからも離れないといけなくなる。それがきっと正しい。あの人だけは、わたしが偽者だということを知らなくても、わたしにひどいことをしないでくれた。嬉しかった。でも、いつか、あの人にも、蔑まれるかもしれない。それだけは嫌だ。だから、その前に、ここを出よう――。
 そうだ、だから、わたしは、ひとりにだけに本当のことを話して、立派な屋敷を出たのだ。
 そして、母と同じ病気で死んだ。
 カノンの身体がすうっと冷えた。
 同時に、昨夜と同じに――いや、昨夜よりももっと、涙があふれてきた。
「あ……ああ……」
 カノンの口から、かすかにうめき声が漏れた。
 どうして忘れていたのだろう。
 あの夢は、夢ではなかった。
 ――あの夢は、三百年前の、わたしの記憶だ。
 エレオノーラ。アーサー。セドリック。ポルナレフ。
 激流のように三百年前の記憶が雪崩れ込んできて、カノンは思わず蹲った。その際に、膝の上に置いていた皿と匙がベッドから落ちて割れたが、そちらに構う余裕はなかった。二日酔いよりももっとひどい頭痛に襲われたからだ。
 異変に気付いたオリビアがやってきても、オリビアがなんとかカノンを宥めようとあれこれと言葉をかけてきても、カノンは反応できなかった。
 だが、その少し後に帰ってきたセオドアの言葉には、反応した。
「リィリィ」
 びくりと顔を上げたカノンは、久しぶりにセオドアの姿を見た。
 けれども、今のカノンには、セオドアではなく、別の人物を見た。
「……セドリック、様」
 セオドアは笑った。悲しそうな、泣きそうな、あの笑顔だった。
「そうだよ。ぼくは三百年前、その名前だった。そして君も、エレオノーラ王女だった。いや、正確に言うと、その偽者だった」
「ちょっと……何を言っているの?」
 ただひとり、状況が分からないだろうオリビアが、困惑した表情を浮かべるが、そんな彼女に、「ごめんね、ちょっと待って」と、セドリック――いや、セオドアが断ってから、改めて、カノンを見つめた。
「ぼくも彼も、君の本当の名前を知ることができなかった。だから、彼――アーサーは、彼が君を呼ぶための名前を付けた。それがリィリィ。君もその名前を気に入ったようだった。そうだね?」
「……はい」
 セオドアはカノンのそばまで来ると、先ほど、トムがやったように、ぽんぽんとカノンの頭を優しく撫でた。
「とりあえず、今は寝なさい。まだ頭の中が混乱しているだろう。十分に寝て、落ち着いてから、また話そう」
 確かにそうだ。セオドアの言う通り、カノンは現在の記憶と三百年前の記憶がごちゃ混ぜになって、今のセオドアがセドリックなのか、今の自分がカノンなのか、三百年前の自分なのか――どうすればいいのかもよく分からない。
 ただひとつ、分かるのは、とても頭が痛いということだけだ。
 そしてそれは、寝ないと、とても治まりそうになさそうだった。
「おやすみ、リィリィ」
 眠りに落ちる前、セオドアがそう言うのが聞こえた。
 ああ、そういえば、いつぞやも、こんな風に、誰かに言われた気がする。
 でも、それが誰なのか、思い出す前に、カノンは眠りに落ちていた。
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