夢幻恋奏

第三話 再会(5)

 カノンが来てから一週間ほど経った。
 最初はやはりカノンに対して警戒していた妹達も、今ではすっかりカノンに懐いている。ベルなどは、カノンが来た初日の夕暮れに、鬼ごっこから帰ってこないのを、カノンに見つけてもらったからか、最初からカノンに気を許したようだった。そんなベルにつられるようにして、メイ、リン、ミラ、バーバラと、順に懐いていったのだった。
 もっとも、妹達がカノンに懐いたのは、カノンが作ってくれる料理が一番の理由かもしれない。というのも、カノンが作ってくれる料理はどれもおいしいのだ。ここへ来るまでは、酒も提供する食堂で働いていたそうで、その前も、母を早くに亡くしたために、家で毎日料理をして家族に食べさせていたらしい。その御陰で料理の腕が磨かれたというわけだ。
 料理と言えば――と、ノアは、カノンが来た初日の夜に、自分の部屋を訪ねて来た時のことを思い出し、しかめっ面になった。その時、彼女は手ぶらではなく、何の液体なのかと疑ってしまうほど、初めて見るような黒い飲み物を持ってきたのだった。
 その飲み物は、セオドアも言っていた通り、カノンの家に伝わる体力回復の飲み物だと、カノンが説明してくれたが、素直に飲む気にはなれなかった。とはいえ、カノンがわざわざ作ってくれたものを無下にするのも気が引ける。
 黒い飲み物が入ったコップを渡されたノアが無言でカノンを見つめていると、ふいに彼女は真剣な顔になった。
「ノア、あなた、身体が限界でしょう。それ以上無理をすると、本当に身体を壊しますよ」
 ぎくりとした。
 セシルや妹達にすら気付かれていないのに――気付かせないようにしていた、と言った方が正確だが――、カノンには一発で気付かれたようだった。
 どうして、と、思ったが、カノンがベルを一発で見つけたことを思い出した。どうして見つけ出せたのか、それはカノンの耳がいいからだった。家が二軒ほどあるような距離にいても、カノンには囁き声すら聞こえてしまう。それほどに耳がいいのなら、目の前にいる人間の心音や呼吸音などで、身体の状態を把握することも難しくはないのだろう。
 カノンには隠し事もできないと観念したノアは、一つ溜め息を落とすと、ひといきに黒い飲み物を飲み干した。わあ、と、カノンが称賛の声を小さく上げた。正直に言おう。味はくそまずかった。
 あまりに苦い味の余韻を、口を押さえてどうにか堪えていると、「これで今日はよく眠れますよ」と、カノンが子供に言い聞かせるような笑顔で言った。別に自分は子供でも何でもない――もう二十二歳のいい大人だと思ったが、体調管理もできないようでは、子供扱いされても文句は言えないということなのだろうか。
 その夜、カノンは、ノアが眠りにつくまでずっと、他愛もない話を続けた。
 ノアはカノンが三百年前のことを一切切り出さないことを意外に思った。セオドアは、初対面にいきなり三百年前のことを切り出してきたのだ。それに、そのセオドアに連れられてきたのだから、カノンも三百年前の記憶を持っていることは疑いないだろう。だからカノンも、三百年前のことを話しに来たのだとばかり思った。
 しかし、カノンは、自分の家族や、セオドアの家族、近所に住む人達、また、時折家に遊びに来る猫達のことなど、本当に他愛もないことを話すだけだった。次の日も、その次の日も。おかげで、ノアは、一度も訪れたことのない村について、随分と詳しくなってしまった。
 そのことを、いつぞやの夕食時にセオドアに話すと、案の定、笑われた。
 ただ、その時も、ノアは、カノンが三百年前のことを切り出さないことを、セオドアには聞かなかった。聞こうと思わなかったし、その頃には、カノンが三百年前のことを話そうとしない理由も、薄々察しがついていた。
 三百年前、自分達が置かれた状況は、あまりにも過酷だった。誰にとっても幸せと言えるものではなかった。
 ただひとつ、幸いだったと言えるのは、リィリィが拷問で命を落とす前に助け出すことができたことだろうか。それだけは本当に良かったと思う。
 ただ、その後のことを考えると、助けてよかったのだろうかと思うが、何度時を巻いて戻したとしても、自分はきっと、同じことをするだろう。何の罪もない彼女がただ殺されるのを、黙って見ることはできないからだ。
 しかし、どれをとっても、あの時は良かったねと笑って話せるようなことではないのも確かだ。何を話すにしても、結局、苦痛を伴う。もう終わったことだとしても、塞がったはずの傷口をこじ開けるようなことになってしまう。
 カノンはそれを避けているのだろう。
 そしてノアも、そのことに、どこか安堵している。
 ただ、いつかは腹を割って話さなければならないだろうと思うが、そのきっかけが掴めない。
 ノアには、自分から切り出すことはできないだろうと思った。なぜなら、三百年前のことを切り出してしまえば、カノンの努力が無駄になるし、何より、カノンを傷つけることになりかねない。それが嫌だった。
 この頃には、ノアも自分では認めずにはいられないほど、カノンを傷つけたくないと思うくらいには、彼女に惹かれている自分がいた。カノンにも部屋が与えられているはずだが、毎晩のようにノアの部屋を訪れては、ノアが眠りにつくまで、他愛もない話をしたり、ノアの知らない歌を子守唄代わりに歌ってくれたりと、ひたむきに穏やかな好意を向けてくれる彼女に惹かれない方が難しかった。
 そして今夜もまた、ノアの部屋をカノンが訪れたが、のんびりと彼女の話を聞いていられなくなった。
「どうしました?」
 突然立ち上がったノアに、カノンは驚いたようだったが、そんな彼女に構わずに、ノアは上着を羽織って、部屋を出た。
「見回りに行ってくる。遅くなるかもしれないから、部屋に帰って寝ろ」
 そう言いおいてから、ノアは部屋を出ると、明かりも持たないまま、暗い廊下を躊躇わずに進み、裏口から屋敷の外へと出た。
 ノアはあの施設にいた頃、幼い頃から、暗殺術を叩き込まれた。そのせいだろう、殺気や敵意に敏感になっていた。その御陰で、ここで過ごすようになってからというもの、たまに来るならず者の存在に気付くことができた。カノンの耳にも、今頃は、屋敷の裏庭や周りに身を隠している、招かれざる客の足音が聞こえているだろう。
 懲りない奴らだ、と、呆れながら、ノアは、近くに身を潜めていた無法者から片付けていった。
 彼らが何のためにノア達のところに来るのか、彼らから聞き出さずとも、その理由は分かり切っていた。ノア達は以前の施設で〈クモ〉候補として育てられた。ノアの妹達も、いずれは若い娘を好む色好みの貴族に売られるはずだった。それが突然奪われたのだから、ノア達を虎視眈々と狙っていた貴族達にはたまったものではないだろう。なんとかノア達を奪い返そうと、こうしてならず者を雇っては、ノア達を襲わせてきているのだ。いや、もしかすると、攫って来いと命令されたのか。どちらにしても、ノア達にははた迷惑な客に変わりはない。
 だからこうして、ノアは妹達を起こさぬよう、片付けていくのだった。
 片付けが終わると、ノア達のいる屋敷から離れたところにある倉庫にならず者達を押し込み、倉庫の出入り口の横にある燭台に火をつけた。その蝋燭の火を見たポルナレフ家の者達が、日が昇る前に、倉庫に入れられたならず者達を引き取る手筈になっている。警察に引き渡されるか、それとも警察よりももっと恐ろしい目に遭うかどうかは、ポルナレフ家の判断による。
 出入り口の扉に鍵をかけるのも忘れず、ノアはやれやれと息を吐きながら、出た時と同様に裏口から屋敷の中に戻った。
 部屋に戻ると、ノアが出た時と変わらず、カノンがいた。
「お帰りなさい、ノア」
 まさか、カノンが待っているとは思わなかったため、虚を突かれたノアだったが、同時にカノンらしいとも納得した。
「……寝ていろと言っただろう」
「ええ。でも、あなたが無事に帰ってくるのを確かめたかったので」
 ならず者達の中には、案の定というべきかどうか、武器を持って襲って来る者もいたので、少々手荒な方法を使わざるを得なかった。そのため、少々とはいえ、顔や上着に返り血を浴びてしまった。
 少しばかり血まみれになったノアの姿を見ても、嫌悪感を一切見せず、カノンは、ただ安堵の笑顔を向けてきた。
「おつかれさまです、ノア」
 そしてノアも、三百年前も、できることなら彼女の笑顔を見たかったのだと、認めずにはいられなかったのだった。
「……ああ」
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