夢幻恋奏

第三話 再会(7)

 カノンが自分に宛がわれた部屋で、手紙を書いていると、遠慮がちに扉を叩かれた。セオドアかと思ったが、セオドアなら遠慮なく音を鳴らすだろう。誰だろうと思いながらも、どうぞ、と、入室を促すと、扉を開けて入ってきたのは、バーバラだった。
「バーバラ。どうしましたか」
 ここでは、お風呂から上がると、寝るまでの時間をそれぞれ好きに過ごす。セオドアなら仕事の準備、バーバラなら学校で出された課題のやっつけ、セシルやミラは読書していることが多い。メイやベル、リンは、同じ部屋にいるので、大抵はお喋りしている。
 カノンは、ここへ来てからは、ノアの部屋を訪れて、彼と一緒に過ごしていたが、今日は、家族への手紙をしたためていた。カノンがここで子供達の面倒を見ていることは、家族もオリビアも知っているが、何の便りもないと、やはり心配をかけてしまう。この手紙を書いたら、ノアのところへ行くつもりだった。
 バーバラは、物珍しそうにカノンの部屋を軽く見回すと、風呂上がりなので流しているだけの髪をちょっといじった。
「うん……ノアのところに行くでしょ? その前に、ちょっとお話しできないかなと思って」
 バーバラの申し出は少し意外だったが、歓迎できることだったので、カノンはにこりと笑った。
「もちろん、いいですよ」
 カノンが毎晩ノアのもとを訪れていることは、やはりというかなんというか、筒抜けになっているなあ、と苦笑する。同じ屋根の下にいるので、それも当然かもしれない。
 カノンに促されて、バーバラはカノンのベッドにちょこんと座った。
「何してたの?」
「ああ、手紙を書いていたんですよ。村にいる家族あてに」
 身寄りのない子供に家族の話題を出すのは酷かと思ったが、バーバラにそんな気遣いをしようとすれば、逆に怒らせてしまうだろう。バーバラはそういう子だ。
 ふうん、と、バーバラは何の気もなさそうに相槌を打つと、先ほどよりも少しばかり落ち着きなく、髪をいじり始めた。
「ねえ、カノンは、たぶん、知ってるよね。あたし達が前にいたところのこと」
 セオドアが連れて来たんだし、と、続けたバーバラに、カノンは正直に頷いた。
「ええ、知ってます。セオドアから聞きました。ひどいところだったようですね」
「そう。ろくでもなかった。ノアとセシル以外にも、兄はたくさんいたんだけど、ひどい訓練のせいで、みんな死んじゃった」
 カノンは黙って、俯くバーバラを見つめる。
 バーバラはどこか悔しそうに唇を尖らせた。
「あたしより上の姉も、みんな……売られた。どこに行ったかはわからない。みんな、手紙を書くって、言ってくれたけど、手紙が来たことなんて一度もない。生きててほしいって思うけど、生きてる方がひどいところにいるかもしれない。何も分からない。……あたしも、そうなるかもしれなかった」
「バーバラ」
 バーバラの、膝の上に置かれた両手が強く握りしめられた。
「あそこじゃ、女の子しか売られないはずだった。でも、ノアも、貴族のところに行くことになった時の、セシルの顔は、ずっと、忘れられないと思う。この世に希望なんか一つもないっていう顔だった。あたしも、そうだと思った」
 バーバラの口から、大きなため息がこぼれた。
「でも、ノアは、戻ってきた。戻ってきて、あたし達を連れ出してくれた。ノアには、感謝してもしきれないと思ってる。たとえノアが、人を殺したのだとしても。今も多分、たまにそういうことをしてると思う。でも、あたしは、ノアのことを嫌いになんてなれない。妹達も、きっと、同じだと思う」
 俯いていたバーバラの顔が上がったかと思うと、カノンにまっすぐに向けられた。
「あたしは、ここに来てよかったと思ってる。妹達もたぶんそう。だから、ノアにも、幸せになってほしいと思ってる。だから聞きたいの。カノンは、どうして、ここに来たの?」
 直球で来たなあ、と、苦笑していると、「正直に言うと、カノンのこと、疑ってたのよ。あたし達を買おうとしていた貴族の差し金じゃないかって」と、これまた正直にぶつけてくれた。
「あらあら。今はその疑いは晴れましたか?」
「まあ、だいたい」
「よかったです」
 完全に晴れたわけではないのは、セオドアと同じ理由だろうと、カノンにもすぐに察しがついた。
 ここに来る前にいた施設のせいで、リンを除くバーバラ達は周囲の人間に対して不信感を持っている。ノアも本当はそうだろう。しかし、ノアは、診療所に来るまで一度も会ったことのないはずのセオドアをすぐに受け入れた。カノンのことも。
 その理由が三人にしか分からないこと――三百年前に友人だったこと、命の恩人だったこと――を話しても、まず、信じてもらえないだろう。そもそも生まれ変わりだということを理解してくれるかどうか。
 だからノアもセオドアも、子供達には話していないだろうし、カノンもまた、明かすつもりもなかった。
 そうですねえ、と、暫くの間考えた後、カノンは言った。
「わたしもセオドアも、ポルナレフ様にお世話になったことがあるんですよ」
 三百年前のことだが、嘘ではない。
 バーバラは意外そうに瞬いた。
「そうなの?」
「そうなんです。わたしがここへ来たのも、ポルナレフ様から頼まれたようなものでしてね。ポルナレフ様からの頼み事は断れないんですよ。それに、ノアも、ポルナレフ様お抱えのお医者様に助けてもらったことがあるでしょう?」
 最後の〈クモ〉と殺し合ったせいで深手の傷を負ったノアを、ポルナレフお抱えの医師が経営している診療所へ運んだのは、セシルとバーバラだ。その時のことをバーバラも思い出したのだろう、確かに、と、頷いた。
「わたし達は、ポルナレフ様にお世話になった者同士ですからね。その縁で来たんです。ポルナレフ様に恩を仇で返すようなことなんて、とてもできません。それは信じていいですよ」
 バーバラ達に害を加えるつもりはさらさらないと、改めて意思表示すれば、「それなら、まあ」と、バーバラは半信半疑のようだったが、頷いてくれた。
 それに、と、カノンは顔を引き締めた。
「あなたたちはこれからの未来を夢見る権利があります。実際、そのための準備を始めているようですし、それはとても素晴らしいことだと思います。でも、ノアは、その気配がない」
 バーバラが小さく息を呑むのが分かった。
 カノンもため息を落としながら、頷いて見せた。
「ええ。ノアは、幸せになろうとは思っていないようです。困ったものですねえ。あなたたちがこんなにノアのことを思ってくれているというのに、無下にしようとしているなんて」
 嘆かわしい、と、頭を横に振れば、恐る恐ると言った様子で、バーバラがそっと訊いてきた。
「……じゃあ、カノンは、ノアを、怒りに来たの?」
「半分はそうですねえ」
「……もう半分は?」
 カノンはにっこりと笑ってみせた。
「幸せになりましょう。それを言いに来たんですよ」
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