夢幻恋奏

第三話 再会(8)

 同じ頃、セシルは、部屋で本を読んでいた。
 本とはいっても、この屋敷に元々あるものではなく、執事として見習いの仕事をしているポルナレフ家から借りてきたものだ。何度も新しく作り直されたものだそうで、まだ表紙も紙もさほど汚れていない。それでも、最後のページにある版数――167という数字から、この本が代々何度も大事に読み継がれてきたことが分かる。
 そもそも、この本を借りることになったのは、ポルナレフ家のある部屋の片付けをしていたのがきっかけだった。ポルナレフ家も冬支度をする時期になったので、掃除を始めることになった。年末に一気に大掃除するのは、あまりに部屋数が多すぎるので効率が悪いということで、冬の足音が聞こえてきた頃から、少しずつ掃除を進めるのだそうだ。セシルはポルナレフ家以外の貴族のことは分からないが、貴族の家はどこも似たようなものかもしれない。
 とにもかくにも、見習いとしてついている執事と一緒に、振り分けられた部屋の片づけをしていると、ある絵画を見つけたのだった。その絵画は部屋の片隅に、しかし大事そうに飾られており、ポルナレフ家の大事な財産なのだと一目で知れた。
 セシルはその絵画に釘付けになった。
 なぜなら、その絵画に描かれているのは、セシルのよく知る人物に似た三人だったからだ。
 ノア、セオドア、カノン。
 だが、あの三人が過去にポルナレフ家で自画像を描かれたようなことはないはずだ。
 セシルのその推測を裏付けるように、よくよく見てみれば、全員、セシルの知る者とは少しずつ違っていた。カノンに似た女の人は、片目が白っぽく描かれているし、何か辛いことでもあったのか、憂いを帯びたような雰囲気を纏っている。ノアに似た男の人は、ノアよりももう少し年上なのか、大人の苦みを少し味わったような雰囲気がある。セオドアに似た男の人は、そんな二人の肩を親しげに抱き寄せて笑顔だが、髪が長く、バーバラのように後ろでひとくくりにしているようだった。
 この絵が描かれた日付を見て、セシルは再度驚いた。
 三百年以上前の冬のある日付だったのだ。
 セシルはもう一度、絵の中にいる三人を見た。
 ノアに似た男の人と、カノンに似た女の人は長椅子に座っており、長椅子の後ろから、セオドアが二人の肩を抱き寄せている構図になっている。
 あの三人が三百年前から生きているとは思えない。
 しかし、あまりにも似すぎている。
 この絵は一体、何の目的で描かれたのだろう?
 どのくらい、そうしてその絵を見ていただろうか。
「その絵に興味がおあり?」
 ふいに声をかけられて、我に返ったセシルは、弾かれたように声のしたほうへと顔を向けた。そこにいたのは、質素だが、とてもよい素材で仕立てられたドレスに身を包んだ、四十代の女の人だった。茶色の長い髪を夜会巻きにしてまとめた、蜂蜜色の瞳を持つ彼女は、このポルナレフ家の当主の奥方――イザベル・ポルナレフだった。
 セシルは慌てて背筋を伸ばし、丁寧にお辞儀をした。
「奥様。すみません、手を止めてしまって」
「構わないわ。あなたにこの部屋を任せることにしたのは、旦那様の指示だもの」
 ポルナレフ家の当主、ミゲル・ポルナレフの指示だと聞いて、セシルは、頭を下げたまま、目を見開いた。見習いとしてついている執事から、我々は今日はこちらの部屋から順に、とは聞いていたが、まさか、当主の意思も絡んでいるとは思わなかったのだ。
 執事見習いに過ぎない自分に、わざわざどうして、と、疑問に思ったセシルの気持ちを見透かしたように、イザベルが小さく笑う気配がした。
「不思議でしょうね。どうして旦那様があなたにこの部屋を任せたのか」
「あ……その」
 どう返せばいいのか分からず、言葉に迷うセシルの目の前で、イザベルは、セシルを釘付けにしたあの絵画の前に立った。セシルの隣に立つことになったので、セシルは更に緊張したが、イザベルの次の言葉で、その緊張はどこかへ吹き飛んだ。
「少し前から、あなたのところで、新しい人が働いているそうですね。彼女はカノンというのだとか。この絵の彼女と似ていますか?」
 思わず顔を上げたセシルはイザベルの顔を凝視した。
 セシルからはイザベルの横顔しか見えなかったが、それでも、彼女が悪ふざけやからかいなどで聞いているとは思えなかった。
「……とても、よく似ています」
 だからセシルも、正直にそう返した。
「そうですか。旦那様が大喜びになるはずですね」
 ふふ、と、小さく笑って見せたイザベルに、セシルは気になっていたことを聞こうとしたが、どこから何を聞けばいいのか分からず、開いた口を閉じた。
 そんなセシルの胸中を知ってか知らずか、イザベルは懐かしそうに目を細めた。
「ねえ、セシル。わたくしはね、旦那様とはお見合いで結婚したんです。そのお見合いの席で、旦那様に聞かれたんですよ。あなたは生まれ変わりを信じますか、と」
「生まれ変わり?」
 思わぬ言葉が飛び出してきたので、またしても瞬くセシルに、ええ、と、イザベルは頷いた。
「なんでも、ポルナレフ家では、代々、語り継がれてきたことがあるのだそうです。三百年前の戦争で、ご先祖様が助力を乞うた、ある若者達の話がそうです。彼らは強欲な王を見事倒しましたが、その一方で、人知れず、強欲な王の被害者になった女性もいたと。彼らは彼女を助けたものの、当時の状況では、一緒にいることすらできなかったようです」
 セシルは再度、絵画を見遣った。
 強欲な王の被害者――では、女の人の片目が白っぽいのは、何かしらの暴行を受けたからなのか。
「旦那様のご先祖様は、彼らの幸せを願っていました。いつか生まれ変わって、今度は幸せになってほしいと。だから、いつか彼らの生まれ変わりが現れたら、躊躇わずに助けるようにと、代々、言い聞かされて来たと聞きました。だから、お見合いの席でも、わたくしにあのような質問をしたのですわ」
 おかしそうに笑ったイザベルに、セシルはそろりと尋ねた。
「……奥様は、なんと?」
「生まれ変わりがあるかどうかはわかりません。ですが、次に生まれてきたら、幸せになれるといい。そう思います、と、答えましたわ。旦那様はそれがいたく気に入ったようですね。その場で結婚を申し込まれましたわ」
 その時のことを思い出しているのだろう、鈴を転がすような声で笑った後、イザベルは、セシルに本の貸し出しを申し出た。
「旦那様が大事にされている本です。当主が変わるたびに、新しく作り直されてきたそうですわ。もし、あなたがこの絵を見て、とても気になるようなら、是非読んでほしいとのことでした」
 そうして渡されたのがこの本だった。
 題名は『或る三人の話』となっている。
 イザベルが話していた通り、この本はポルナレフ家のご先祖様が書いたもののようだった。その中身もまた、イザベルの話の通り、三百年前に起こった戦争に発端する、ある三人の若者の話だった。
 ――三百年前、この国は疲弊しきっていた。強欲な王が侵略戦争をやめなかったからだ。そんな王に不満を募らせた貴族や国民が蜂起し、王とその家族を捕まえた。
 しかし、王とその家族を捕まえるまでの間、彼らは卑劣な策を弄していた。当時、王女だったエレオノーラに瓜二つの女性を見つけ、彼女を無理やり王宮に連れてくると、彼女をエレオノーラの偽者に仕立て上げたのだ。
 反乱軍はそのことを知らず、彼女を捕まえ、家族の居場所を吐かせるために拷問した。その際にひどい暴行を振るったため、彼女は右目の失明、左足の麻痺を負った。
 彼女を拷問から助け出したのは、アーサーという名の兵士だった。彼は当時のポルナレフ家の当主から声をかけられ、反乱に加わったのだ。アーサーには修学院時代からの友人であるセドリックがおり、彼もアーサーと同様、ポルナレフ家に目をかけられていたため、同じく反乱に加わっていた。
 アーサーとセドリックは拷問から助け出した、エレオノーラの偽者だった彼女にリィリィという名を与え、手厚く看病した。また、護衛にも手を抜かなかった。当時は強欲な王に憎悪を持つ者も少なくなかったため、なかなか見つからない王へぶつけられない怒りを、たとえ偽者であっても、ぶつけたくてたまらない者が大勢いたのだ。
 アーサーとセドリック、ポルナレフは、そうした悪意から必死にリィリィを守っていたが、ある日、リィリィは自分の意思で彼らの元を離れた。拷問をきっかけに、彼女の先祖を代々苦しめていた病気が発病したからだ。もう長く生きられないことを悟っての別れだった。
 リィリィがいなくなった後は、見ていられなかった、と、綴るほど、アーサーの変わりようはすさまじかったらしい。リィリィがいなくなってすぐに見つかった王とその家族の処刑を、アーサーは躊躇うことなくこなした。それだけではない。その後、新しい王の筆頭護衛となってからも、新しい王の命を狙う輩の命を容赦なく奪っていった。
 その数年後、アーサーは王の命を狙った暗殺者によって、命を落とした。
 その際、駆けつけたセドリックによって、また生まれ変わる、そして今度は幸せになれと言われたことが詳細に記されていた。当時のポルナレフ家の当主もまた、セドリックの気持ちを汲み取り、彼なりに二人の幸せが叶うよう、尽力してきた――。
 本の最後のページには、あの絵画がきれいに印刷されており、当時のポルナレフ家の当主にとって、あの三人がいかに特別な存在だったかが分かる。
 本を閉じた後、セシルは、沈思ちんししていた。
 この事実をどう受け止めればいいのか、分からなかったからだ。
 イザベルは生まれ変わりがあるかは分からないが、次に生まれた時には、幸せになれるといいと言っていた。
 できれば、セシルも、そう願いたいところだった。
 しかし、現実はそれを許さなかった。
 何せ、あの絵に似ている三人が、まさにセシルの近くに存在しているのだ。
 それに何より、ノアがセオドアとカノンのことをすぐに受け入れたこと。あれは、ノアが三百年前のアーサー、セオドアが三百年前のセドリック、カノンが三百年前のリィリィ、それぞれの生まれ変わりだとしたら、納得できてしまうのだ。全く知らない相手ではなく、生まれる前とはいえ、前世でよく知った者だとしたら、警戒を抱く理由がない。
 理由はもう一つある。ポルナレフ家だ。ポルナレフ家は何の縁もなさそうな自分達の保護を申し出てくれた。あれは、正確には、自分達の保護ではなく、ノア――かつてのアーサーを助けるためだとしたら?
 色々と合点がいくことが出過ぎてきて、生まれ変わりなんて信じ難いことのはずなのに、あの三人が三百年前の生まれ変わりかもしれないと思うようになっている自分がいる。
 待て待て、と、セシルは、目を閉じて、生まれ変わりかもしれないという考えを、いったん、頭の隅に追いやった。
 あの三人は、確かに、三百年前に存在した人達の生まれ変わりかもしれない。もしそうだとしたら、自分は、あの人達にどうなってほしいのだろう?
 真っ先に顔が思い浮かんだのはノアだった。
 貴族に売られることになったノアを、自分はどんな顔で見送ったのか、分からない。でも、たぶん、この世の終わりかというほどの表情だったのは間違いないだろう。この世に希望なんてひとつもないのだと絶望したのは、あの時が初めてだったのだから。
 けれども、ノアは、セシルのその絶望を踏みつけるように、戻ってきた。それだけではなく、悲惨な未来しか待っていない自分達を、あの施設から連れて逃げ出してくれた。
 そうだ。ノアは自分達を助けてくれた。それは今も変わらない。ノアは自分達に気づかせないようにしているのだろうが、自分と、おそらく、バーバラは気づいている。ノアは、今も自分達のことを諦めていない、ろくでもない貴族に雇われた輩を、ひっそりと追い出し、時には葬っている。どこまでも自分達を守ろうとしているのだ。
 そんなノアに、セシルはどうなってほしいのか。
 幸せになってほしい。
 だが、ノアは、幸せになることを拒んでいるところがある。
 どうすればいいのか、と、ため息を落とした時、カノンの顔が浮かんだ。
 同時に、頭の中に散らばっていたすべての疑問――複雑に絡まって解けなくなった結び目が、するりと解かれて一本の糸に戻ったような気がした。
 ――ああ、だから、君は、ノアに会いに来たのか。
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