夢幻恋奏

第三話 再会(9)

 雪が降り始める頃だった。
 その事件は起きた。


 庭で他の子供達と遊んでいたはずのベルが血相を変えて、ちょうど、廊下に出てきたセオドアにぶつかってきた。いや、ぶつかってきたのではなく、しがみついてきた、か。ぶつかってくる勢いだったので、ぶつかってきたことには違いない。
「ベル? どうしたんだい」
 ぶつかってきた勢いで倒れそうになるのを、咄嗟に足を踏ん張って堪えたセオドアに、ベルは泣きそうな顔を向けてきた。
「知らないにおいがしたの」
 セオドアはすぐに反応した。
 ベルの肩を痛くないように掴んで、彼女の顔を覗き込む。
「誰かがこそこそやってきたのか。どこにいるかわかる?」
「庭の……木が茂ってるほう。あの、カノンも、一緒に遊んでたんだけど、見つからないの。あの、かくれんぼ、してたんだけど、もしかしたら」
「わかった。教えてくれてありがとう。他の子は大丈夫だね?」
 既に涙目になっているベルの頭を宥めるように撫でてから、最後にそれだけを確認すると、彼女はこくりと頷いた。みんないる、と、目視だけでなくにおいでも確認しただろう彼女のその答えに、よかった、と、安堵する。
 それからセオドアはセシルを大声で呼んだ。
 この屋敷の一階は、一番奥から順に、大風呂、厨房、食堂、居間、玄関という構図になっている。その玄関からすぐに入れる居間でくつろいでいたらしいセシルが、怪訝な顔で廊下に出てきた。
 セシルもまた、泣きかけているベルと緊迫した表情のセオドアを見て、ただごとではないとすぐに察したようだった。
「カノンを探してくる。セシルは子供達を中に入れて。それからぼくたちと一緒に来てくれ」
「わかりました」
 頷いてから、セシルはベルに、「居間にエリーさんがいるから、一緒にいて」と、居間に行くように促した。それからセオドアと一緒に外に飛び出ると、子供達を呼び集める。
 それを確認してから、セオドアはどこかにいるはずのノアを探した。カノンに何か危機が近づいているなら、ノアも黙ってはいられないはずだ。それに何より、自分達の中では、ノアが一番戦力が高い。
 いや、と、セオドアはすぐに考え直した。もしカノンに何かあったのなら、何か異変があるはずで、ノアもそれに気付くはずだ。鼻がいいベルでさえ、かくれんぼの最中で気付いたくらいだ。セオドアやセシルより先に行動を起こしている可能性が高い。
 ノアは子供達と遊ぶことはあまりないが、今日のように、仕事が休みの日は、庭のどこかにいる。子供達が視界に入るどこかにいて、必ず、子供達に毒牙を向ける輩がいないかどうか見張っているのだ。子供達もそれを分かっているのだろう、ノアに一緒に遊ぼうとは言わないが(ノアに近寄り難いからというのもあるだろうが)、ノアがいることを認めているところがある。むしろ、ノアがいることに安心しているようなところもある。
 なんだかんだで、子供達はみんなノアのことが大好きなんだよなあ、と、セオドアは思う。
 いけないいけない、と、セオドアは頭を振った。今はカノンの身の安全の確保が大事だ。庭の木が茂っているほう、と、ベルが言ったところ――屋敷と庭を囲むように木々が植えられているところへと足を踏み込んだ。
 ポルナレフ家は、本家である屋敷も離れであるこの屋敷も含め、屋敷の周りには、必ず塀のように木々を植えて囲ませている。ちょっとした林にもなっているそれは、ただ単純に、侵入者防止のためのものだ。しかし、見ようによっては、侵入者にとっては、身を潜める絶好の場所にもなる。侵入者はそれを利用したのだろう。
 どこか死角になるようなところに引きずり込まれていないか、と、思ったところで、鈍い音が聞こえた。短い悲鳴も。
 案の定、ノアもやはり、侵入者の存在に気付いたらしい。そしてセオドアよりも一足早く見つけ、片付けた。
 だが、侵入者は一人ではないようだった。罵声が続いたかと思うと、金属音のようなものが続いて聞こえた。
 そちらへと駆け寄って見れば、林の終わりのところで、ノアが侵入者らしき輩とやりあっている最中だった。そのそばには息絶えたと思われる死体がひとつ、その反対側に、ぐったりとして動かないカノンがいた。
 セオドアははやる鼓動をどうにか落ち着かせようとしながら、ノアの邪魔にならぬよう、しかしできる限り早く移動してカノンのもとに近寄る。その口元に手を当てると、呼吸はしていた。どうやら眠らせるために薬を嗅がせただけのようで、最悪の事態にはならなかったようだ。
 膝の下から崩れ落ちるような安堵を覚えながら、セオドアはノアのほうへと視線をやった。
 どちらもノアよりもがっちりとした体躯を持つ男だった。年は三十代かそこらだろうか。息絶えている方の男は、どうやら頭に武器を打ち込まれて即死したようだった。カノンが寝ていてよかったと心底思ったのは言うまでもない。もう一人のほうも、剣の腕に覚えがあるところからして、荒っぽい仕事の経験者のようだが、長年ひたすらに暗殺術を叩き込まれたノアにとっては赤子のようなものだった。
 おもちゃにも見える、縫い針を大きくしたような武器でノアに剣を弾き飛ばされて、後ろへと大きく下がった彼は、ぜいぜいと荒い息を繰り返しながら、ぎろりとノアを睨んだ。
「くそ――くそ! なんでおまえみたいのがいるんだよ! 俺達はただ、ガキを攫う簡単な仕事だって――!」
 なるほど、子供しかいないからと聞かされて仕事に来たというわけか。  確かにノアも、少し前までは成人ではなかったのだから、間違いではないかもしれない。だが、大人ではないからと言って、腕に覚えがないと判断するのはどうだろう。何せ、ノアも、そして、セシルも、あの〈クモ〉候補として育てられたのだ。ノアが仕事でいなくても、セシルがいれば、彼に苦戦させられたはずだ。
 結局、ろくでもない貴族に唆されてやってきた今までの輩と同様に、子供だけだからとなめてかかってきたことになる。
 しかも今回は、よりによって、手を出したのがカノンだ。
 自業自得としか言いようがないな、と、同情すらしたセオドアの目の前で、事は終わった。
 一瞬で距離を詰めたノアに急所を刺されて、無頼者はその場に倒れた。
 そこへちょうど、セシルがやってきたが、彼は雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。
 無理もないな、と、セオドアは思った。セシルも、そして、バーバラもおそらく気付いていただろう。ノアが妹達に気付かれることのないように、ひっそりと、無頼者を片付けていたことに。しかし、現場に居合わせるのは――それも、誰かが死ぬのを見たのは、おそらくこれが初めてだ。
 セシルが立ち尽くしているのは、それだけではないだろう。
 今のノアには、瞳に影が差している。元々ノアの瞳は漆黒色だが、今はより深い闇色にも見えた。それに加えて、誤魔化しようがないほど、ノアは返り血を浴びている。びりびりと肌で感じるほどの殺気も隠せていないのだから、セシルが怖気づくのも仕方ない。
 だからセオドアは、ノアを刺激しないよう、ゆっくりと立ち上がると、なるべく穏やかに声をかけた。
「アーサー」
 セシルが弾かれたようにセオドアを見るのが分かったが、そちらには目を向けず、ただひたすら、ノアを見つめながら、セオドアは続けた。
「リィリィは無事だ。眠らされているだけだよ。その男達はぼくとセシルで片付けるから、君は彼女を連れて行くんだ。いいね?」
 ノアを残せば、未だおさまらぬ殺気を持て余す彼は、それをもう死んでいる二人の無頼者にぶつけようとするだろう。無頼者に同情するつもりはないが、死体に鞭打つような真似はしたくないし、見たくもない。
 ノアが帰った時の子供達の反応が気がかりだが、セシルとエリーの判断で居間に集まっているはずだ。子供達は、不安な時は必ず集まってくっつきあう癖がある。ここへ来る前にいたあの施設にいたからこその悲しい習慣ではあるが、今はちょうどよかった。居間にいるなら、居間に行くことなく、玄関からすぐの階段を上って二階に上がれば、子供達と鉢合わせずに済む。
 どのくらい顔を合わせていたのだろう。
 やがて、たまっていたものを吐き出すように、ノアの口から長いため息がこぼれたかと思うと、武器を軽く振り、血を払った。返り血のついた服の裾で拭いたそれを懐にしまうと、ゆっくりとした足取りでカノンに近づくと、軽々と抱き上げた。
 カノンを抱えたノアの背中が見えなくなるまで見送ってから、セオドアも、深いため息を落とした。肩に入っていた力も同時に抜ける。
「やれやれ。当たり前かもしれないけど、殺気っていうのは、緊張するねえ」
 セシル、手伝って、と、セシルに声をかけてから、事切れた二人の無頼者に近づく。セシルも我に返り、そろそろとセオドアの近くに来るが、無頼者達の死に顔はやはり正視に堪えなかったらしい。顔を顰めると同時に、顔を背けた。
 顔が見えないように、とりあえず持ってきていたハンカチで顔を覆い、もう一人の顔も、セシルのハンカチを借りて覆うと、何か手掛かりはないかと、服をごそごそと探る。
「何を……」
「いやあ、こいつらの雇い主の手掛かりがないかと思ってね。まあ、雇い主のほうも、自分の身元が分かるものを持たせるようなへまはしないと思うけど」
 セオドアのその予想通り、雇い主が分かるような手掛かりは何もなかったが、二人はここへ来る前に近くの店に来ていたようだった。その証拠に、その店で受け取ったと思われる商品が見つかり、セオドアは心の中で雄叫びを上げた。
 やっと尻尾を捕まえたな、と、目を細めていると、セシルが遠慮がちに声をかけてきた。
「……あなたは、セドリックなんですか、セオドア」
 おや、と、セオドアはセシルを見た。
 セシルは、初めて死体を目の当たりにしたからか、顔色が悪くなっているが、その瞳には強靭な精神力を反映しているかのように、強い光がある。
「そうだよ。三百年前、ぼくはその名前だった。ポルナレフ様から何か聞いたかい?」
「聞いたというか……奥様から本を借りて、それで」
「ああ」
 セオドアは立ち上がると、セシルと向かい合った。
「さっきも聞いただろう? ぼくはセドリック、ノアはアーサー、そして、カノンはリィリィだった。ぼくたちはみんな、三百年前の生まれ変わりだ。ポルナレフ様も健気だよねえ。三百年前、ぼくは死にゆくアーサーに、確かに今度も生まれ変わるようにと言ったけど、それを信じて待ってくれるとはねえ。しかも三百年間」
「……ポルナレフ家で、あなたたちの絵を見ました。三百年前に描かれた」
「ああ。ポルナレフ様が画家に無茶振りして描かせたやつか」
「無茶振り?」
「そうそう。ぼくたちが生まれ変わった時に、ぼくたちだと分かるようにって、ポルナレフ様が画家を呼んで描かせたんだよ。もし生まれ変われたとしても、髪も瞳も別の色になったり、姿も全然変わっていたかもしれないのにねえ。リィリィがいなくなった後だったんで、エレオノーラ王女に似せればいいって言われたもんだから、画家も気の毒だよねえ。でもその分、代金をたんまりもらったはずだから、そうでもないか」
 アッハッハ、と、笑い声を上げるセオドアに、セシルは疲れたような顔を向けてきた。
「……とりあえず、この人達を埋葬しましょう。道具を持ってきます」
「頼むよ――おや」
 セオドアが顔を上げたのにつられるようにして、セシルも顔を上げた。
 日が暮れ行く空は、いつの間にか、灰色の雲に覆われており、そこからちらほらと降ってくるものがあった。
「雪だ」
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