夢幻恋奏

第四話 家族(1)

 汽車から降りると、バーバラとセシルはそわそわと落ち着かなさそうに辺りを見回した。当然だ。二人とも、ポルナレフ家のある街――ジムダから出るのはこれが初めてなのだから。
 そんな二人の様子をほほえましく思いながら、カノンは、久しぶりに帰ってきたなあ、と、生まれ育った村――アステルマを懐かしく思った。それはセオドアも同じようで、「相変わらずだねえ」と、いつもの穏やかな笑顔を浮かべている。その隣に立つノアは相変わらずの無表情で、何を考えているのかは分かりにくい。
 そう、カノンは、セオドアとノア、セシルとバーバラと一緒に、アステルマに帰ってきたのだった。理由は単純に、カノンがノアと結婚したからだ。
 セシルがノアに「カノンと結婚してよ」と言い出した時は、本当に驚いたが、断る理由もなかった。三百年前も、リィリィはアーサーを慕っていたが、結婚どころか、一緒にいることすらできなかったのだ。とても平和とは程遠い状況だったので、仕方ないと言えば仕方ないが、リィリィは、死ぬ最後の一瞬まで、ずっとアーサーのことを考えていた。やはり未練だったのだ。しかし、今度は、何の障害もないのだ。しないことを選ぶ理由はなかった。
 もっと言えば、カノンやノア、当人よりも、周りのほうが二人の結婚に乗り気だった。ノアが言い出した時、真っ先に喜んだのはベルだった。
「結婚? カノンとノアが結婚するの? じゃあ、大きなケーキ、食べられる?」
 これでもかと目を輝かせたベルは、どうやら、本で、結婚式に出てくる大きなケーキ――ウェディングケーキのことを知ったようだった。こんなに大きなケーキがあるのか、いつか食べてみたいと、ずっと思っていたらしい。それが叶うかもしれないとなれば、ベルが食いついてくるのも当然だった。
 耳ざとく聞きつけたセオドアが、心底楽しそうな笑顔を見せた。
「ウェディングケーキか。いいねえ。でも、二人の場合、結婚式より、パーティーを開くのが合ってるんじゃないかな。二人とも、あんまりたくさんの人が集まるのは好きじゃないだろ?」
「ケーキ、食べられない?」
 しょんぼりしかけたベルの頭を、苦笑したセオドアが撫でる。
「そうだねえ、大きなケーキは無理かもしれないけど、そのかわり、色んなケーキを作ってもらうようにお願いしてみようか。他にも色々、ごちそうを作ってもらおう」
「ごちそう!!」
 セオドアの提案で、ベルだけでなく、他の子供達も大はしゃぎしたのは言うまでもない。
 その様子を見れば、セシルの思わぬおねだりを、ノアもカノンも、とてもじゃないが、断れない。いわば、がっちりと外堀を埋められた形になるが、これでよかったのかもしれないと、カノンは思う。ノアとはずっと一緒にいたいと思っているが、結婚にこだわるつもりはなかったのだ。
 けれども、考えてみれば、結婚することで、できることもある。結婚して家族になることで、ノアが、今まで以上に無茶をしないようになることがそうだ。以前、ノアは、カノンが傷を縫わなければならないほどに無茶をしたことがある。もう無茶はしないようにと釘を刺したものの、弟や妹達を守るためなら、自分の身体のことなど考えなかったノアに、どこまで響いたかどうか、心許なかったのだ。カノンという家族ができれば、ノアもさすがに、無茶をするのに二の足を踏んでくれるようになるかもしれない。もしかしたら、セシルも、それを期待してのおねだりかもしれなかった。
 次の日、早速、セオドアに連れられて、ノアとカノンは宝飾店に行き、そこで結婚指輪を買ったのだった。セオドアからお祝いだからと、支払いは彼がやってくれた。そのくらいは自分達で払うと言ったが、「三百年前にはできなかったんだからね。このくらいは祝わせてよ」と言われれば、これも断れなかった。
 その夜は、薬指に光る銀色を、どきどきした気持ちで眺めながら、眠りについたのは言うまでもない。
 もちろん、結婚したことは、セオドアもカノンも、アステルマにいる家族に手紙で知らせたが、やっぱり会って話したほうがいいだろうと、暖かくなってきた頃に、アステルマに帰ることになったのだ。
 その際、セシルとバーバラも誘ったのは、子供達にもカノンの生まれ育った村を見てほしいというのもあるが、パーティー会場の下見というしっかりとした理由もある。セシルとバーバラだけにしたのは、子供達もみんな一緒だと、流石にはしゃいで、どこに行くか分からないからだった。
 カノン達がアステルマに行っている間、ミラ、メイ、ベル、リン、残りの子供たちはエリーが見てくれることになっている。このためにではないものの、エリーも、セオドアとセシルが休みを確保する前に、一週間ほど、休みをもらって、実家に帰っていた。自分も休ませてもらったのだから、みんなも楽しんでくださいと、妹達と一緒に笑顔で送り出してくれたのだった。
 つくづく、自分達は優しい人に恵まれているなあ、と、カノンがエリーに感謝したのは言うまでもない。
 そうしてカノン達は汽車に乗って、アステルマに向かったのだった。
「のんびりしたところなんだね」
「そうですねえ。街に比べると、あまりぱっとしないかもしれませんが」
 一通りあたりを見回したセシルにそう返していると、バーバラが興奮したような表情でカノンを振り返った。その指はどこかを指している。
「ねえカノン、あのもこもこした生き物は何?」
 もこもこした生き物、と、聞いて、カノンは思わず笑ってしまった。見てみれば、バーバラの指が向けられているのは、カノンもなじみのある牧場だった。そこで放牧されている白い生き物――羊は、のんびりと歩いては、思い出したように地面の草をんでいる。
「ああ、あれは羊ですよ」
「羊!」
 初めて見たのだろう、バーバラは反射的に走り出すと、柵越しに羊たちを物珍しそうに見つめた。
 考えてみれば、バーバラもセシルも、〈クモ〉を育てる施設や、ポルナレフ家から、あまり外に出たことがない。街に出かけることはあったものの、普通の家に生まれた普通の子供のように、いろんな経験をする機会には恵まれていなかったのだ。
 これからはその機会をたくさん作ってあげなければ、と、思ったところで、振動音がした。何事かとそちらへと振り向けば、荷車が道の横の溝にはまってしまったようだった。後ろにある荷物はしっかりと荷車に縛り付けられているため、落ちずに済んだようだが、荷車の足の部分である車輪はがっちりと溝にはまっていて、簡単に抜けそうにない。
「あれ、スティーブじゃないか。隣町から荷物を運んできたんだな。ノア、頼めるかい」
 のんびりとした様子でそう言ったセオドアに、ノアは呆れたような一瞥をやってから、立ち往生してしまった荷車へと近寄ると、荷車の持ち主である男性――カノンも馴染みのあるスティーブに「ちょっと離れてろ」と告げると、荷車の下に手をかけた。
 そして、持ち上げた。
 スティーブは一種の商人だ。荷物を町から町へと運ぶことを仕事にしている。頼まれれば、荷車に載せられるようなものであれば、なるべく何でも運ぶ。カノンの父や兄にも頼まれて、木材や、出来上がった商品を運ぶこともあるので、カノンとも馴染みになった。そのスティーブが荷車に載せているのは、到底、大人が一人だけで持ち上げられるような量のものではない。それを、ノアは軽々と持ち上げたのだった。
 スティーブの目と口があんぐりと開けられたのが見えた。彼だけではない。その場に居合わせた人々もまた、ノアの常人離れした膂力に言葉も出ないようだった。
 荷車を道のほうへとずらしておろしたノアは、「気をつけろ」とスティーブに言い置いてから、カノン達の許に戻った。おつかれさまです、と、カノンがノアにねぎらいの言葉をかけたところで、バーバラも気が済んだようで、戻ってきた。
「ねえカノン、ちょっと向こうにも、牧場があったんだけど、あそこにいるのは何? 羊じゃないよね? 羊と違う角が生えてたし、白黒の模様だった」
「ああ、あれは牛ですよ。みんな毎日、牛乳を飲んでいるでしょう? あれを作ってくれている生き物です」
「へえ、あれが。重そう」
 バーバラとそんな他愛もないやり取りをしながら、カノン達は、『花見鳥』に向かった。
 そんな彼女達を、スティーブや、その周りにいた人々は、まだ呆然としたまま、見送ったのだった。
 『花見鳥』に着くと、昼を少し過ぎたからだろう、店の中にいる客は多いというほどではないが、少なくもなかった。空いているテーブルがちらほら見られる程度だ。
 カウンターの内側で作業をしていたオリビアが、真っ先にカノン達に気付いた。
「いらっしゃ……あら、セオドアじゃない。それにカノンも。おかえりなさい」
 接客用の笑顔から心からの笑顔に変わったオリビアに、セオドアとカノンも、ただいま、と、笑顔で返した。
「あら、そちらがお客さん?」
「そうそう。こっちがセシル、この子がバーバラ。で、カノンの後ろにいるのがノア。カノンの旦那様だよ」
「まあ」
 セオドアが左隣にいるセシルとバーバラ、それから右隣にいるカノンのそばにいるノアを紹介していったが、なぜか、ノアが紹介されたところで、店にいるほぼ全員の客がカノン達に向けられた。正確には、ノアに。
 怪訝そうに店の中にいる客達を見回したノアの肩を抱きながら、セオドアが、「まあ、まずは食べよう。姉さん、自慢の料理をお願いしていいかな」と、カウンターの開いている席へと連れて行った。セシルとバーバラもそれに続く。
 カノンはセオドア達のようにカウンターの席にはつかず、その内側に回った。久しぶりにオリビアの手伝いをするためだ。
「カノン、あなたも座っていていいのに」
「落ち着かないんですよ」
「相変わらずねえ」
 苦笑したオリビアと一緒に、カウンターの内側でせっせと動き回っていると、ノアの隣の席にひとり、男性が座ってきた。いつぞや、カノンの兄の悪口を言った後、カノンに付き合ってほしいと言ってきたジャンだ。明らかにノアに因縁をつけに来たとしか思えず、実際、因縁をつけ始めた。
「おう、兄ちゃん、カノンと結婚したって?」
「ああ」
「お前のどこがカノンは気に入ったんだ、ああ?」
「さあ」
「おいおい、話が立たないともてねえぞ。無口で無表情に無愛想、よくそれでカノンに気に入られたもんだな。どうやって口説いたんだよ、ああ?」
「口説いてはいない」
「ああ、じゃあ、カノンのほうが惚れたって言うのか?」
「ノア……真面目に付き合わなくてもいいと思うよ」
 明らかにかちんときたらしいジャンのその質問に、どう話したものだろうと、言葉を探すように黙り込んだノアのその沈黙を正確に察したセシルが、そっと助け船を出した。
 だが、ノアが何か返すより先に、ジャンの前に黒い飲み物の入ったコップが置かれた。
 それを見て凍り付くジャンに、コップを運んだカノンは満面の笑顔を向ける。
「特製の飲み物です。特別にお作りしましたので、よければ召し上がってください」
「えっと……あの……」
「召し上がってください」
 明らかに顔色を変えたジャンに、カノンはあくまでもにこにこと笑顔を崩さない。
「ねえ、セオドア、あれ、もしかして……」
 ノアの隣にはセシル、その隣にバーバラ、その隣にはセオドアが座っている。セオドアに小声で窺うように聞いてきたバーバラに、セオドアも笑顔で頷いた。
「あれが例の体力回復の飲み物だね。ジャンもかわいそうに」
「言ってることと顔がちっとも合ってないよ……」
 愉快そうな笑顔を見せるセオドアに呆れてから、バーバラは気の毒そうな視線をジャンに向けた。
 ジャンもカノンが作る特製の体力回復の飲み物を知っているので(実際に飲んだことがある)、どんなに勧められても飲みたくないのだろう。しかし、ひそかにカノンに好意を寄せているようでもあるので、カノンのおすすめを断るのも気が引けるのかもしれない。
 なかなか手を付けようとしないジャンのかわりに、というわけでもないだろうが、ノアが無造作に手を伸ばすと、黒い飲み物を一気に呷った。思いっきりしかめっ面になったノアだが、何かに気づいたように、カノンを見上げる。
「ちょっと甘いな」
「ええ、蜂蜜を少し入れましたから」
 途端に少し非難するような眼差しになったノアだが、そんな視線にも怯まずに、カノンはにこにこと笑顔で返したのだった。
「なんならおかわりいります?」
「いらん。それより水をくれ」
 セシルがそっと自分の分の水の入ったコップをノアに差し出した。
「ノア、ぼくの飲みかけでよければ、あげるよ」
「助かる」
 ノアは躊躇ためらうことなく、ノアが差し出したコップを呷り、これも一気に空にした。
 その様子を見たジャンが、涙目になったかと思うと、「ちくしょおおおお!」と、店を飛び出していった。支払いがまだだったが、次に来た時に、オリビアがしっかりと請求するので問題はないだろう。
 成り行きを黙って見守っていたバーバラが、ぼそりと呟いた。
「カノンって、強いよねぇ」
 セシルも頷いた。
「そうだね。ノアもね」
「そうね。最強夫婦」
 途端にセオドアが噴き出し、テーブルに突っ伏すようにして、肩を震わせて笑い出した。大きな声こそ立てなかったものの、笑いを堪え切れていないのは誤魔化しようがない。
 それを見たセシルがバーバラをそっとたしなめる。
「……バーバラ。あんまりセオドアを笑わすんじゃないよ」
「そんなつもりじゃなかったんだけどね。セオドアって、笑い上戸だよねぇ」
「ああ、確かに。泣き上戸でもあるね」
「あー、そうねぇ」
 バーバラとセシルのそのやり取りを聞いたオリビアもまた、率直な感想をカノンにこぼしたのだった。
「素直な子達ねぇ」
 カノンも笑顔で頷いた。
「そうですね、みんないい子達ですよ」
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