夢幻恋奏

第二話 過去(3)

 王宮の一室――ポルナレフが作業部屋として使っている、元書記官の部屋には、重い空気が漂っていた。
 セドリックも、リィリィから聞いた話をそのまま伝えれば、こうなることは分かっていたが、伝えない選択はなかった。
 ――リィリィが「もうすぐ死ぬ」と言った後、彼女は自分の身に起こったことを余さず話してくれた。
「わたしは、元々、母親と一緒に暮らしていました。父親は、わたしが生まれる前に、病気で死んだそうです。つましい暮らしでしたが、わたしは、母と一緒にいれば、しあわせでした。でも、わたしが十三歳の時、母が、病気で死んでしまいました」
 一人路頭に迷いかけたが、母が生前、リィリィと一緒に教会に行ってよくお祈りをしていた縁で、リィリィの母の死を知ったその教会の神父が、リィリィを引き取ってくれたという。
 その神父のいる教会では、リィリィの他にも、リィリィと同じ孤児が何人かおり、神父は身寄りのいない彼らを育てていた。リィリィ含む子供たちは、慈悲深い神父を本当の父親のように慕っていた。
 しかし、平穏な暮らしは終わりを告げた。
 戦争が起きたからだ。
 いや、正確に言えば、戦争が起きた後も、教会でのつましい暮らしはなんとか続けていられた。
 それが崩されたのは、あの、ポルナレフ達が反乱を起こして王宮に踏み込む数日前だった。その日、いきなり、王の使いだという男の人達がやってきて、怯えるリィリィを連れて行こうとしたのだという。当然、神父はリィリィを必死に守ろうとしたが、リィリィを連れて行こうとした男が、突然、神父に切りつけた。そのとき、神父の左腕が斬り落とされたのを、リィリィも、他の子供達も目の当たりにした。言うことを聞かなければ、子供達も斬ると言われて、リィリィは大人しくならざるを得なかった。そうして王宮に連れていかれた後、リィリィは別の女の人達に着替えさせられ、おいしい食事までごちそうになった。怖い目に遭わされると予想していたリィリィは拍子抜けしたが、不安が消えたわけではなかった。この後にもっとひどいことになるのではないか、と、怯えながら、女の人達に案内された部屋で、恐る恐る眠りについた。すると、穏やかではない足音で目が覚め、見知らぬ屈強な男の人達が部屋の中に入ってきて、「エレオノーラ王女だ!」と声を上げた。その時、ようやく、リィリィは、自分が王宮に連れてこられた理由を悟った――。
「そのあとは、皆さんも、知っている通りです」
 リィリィの話を聞いたセドリックは、自分達の推測と違わなかったことに、苦いため息を落とした。
「でも、それと、君がここを出ることは、どう繋がるのかな」
 そう、そこがまだ分からない。
 セドリックのその問いかけに、リィリィは、自分の胸を軽く押さえた。
「ここ一週間、血を吐くことが増えました。母が死ぬ前の症状と同じです。祖母も、やはり同じように若い時に死んだそうです。今日、先生に診てもらったら、母や祖母と同じ病気だと分かりました。薬は用意することはできるそうですが、かなりのお金になるそうで」
「……ポルナレフ様に、お願いすれば」
 苦し紛れに言ったセドリックに、リィリィは今度も首を横に振った。
「いいえ。今はとても大事な時期でしょう。わたしの治療にお金を使うことはしないでください」
「しかし」
「セドリック様。わたしは、セドリック様や、アーサー様、それに、先生、皆さんに感謝しています。とても。でも、今は、他にも、やるべきことがあるはずでしょう。わたしにばかり構っていていいはずがない」
 それに、と、リィリィは、悲しげに目を伏せた。
「せめて、最後に残された時間くらいは、穏やかに暮らしたいんです」
 彼女が受けた仕打ちを考えれば、彼女がそう望む気持ちは、痛いほどにわかった。
「……アーサーは、どうなるんだい」
 セドリックはそれしか絞り出せなかった。
 リィリィは再度目を伏せてから、またあの宝石のように綺麗な目を、セドリックに向けた。
「セドリック様。あなたがわたしなら、どうしますか。アーサー様がとても強いのは知っています。アーサー様なら、きっと、わたしを守ってくれるでしょう。たとえ、この国の人達みんなが、敵になっても、きっと。でも、その度に、彼は傷つく。わたしは、それを見たくない。セドリック様も、同じではないですか」
 ――ああ。
 セドリックは俯いた。
 リィリィが、セドリックの思った以上に賢い女性だと分かったからだ。
 リィリィは、自分がエレオノーラ王女の身代わりとして仕立てられたことを知っている。それだけではない。アーサーとセドリックが交代で彼女の看護だけでなく、護衛にあたっていることも。そして、その理由も。
 彼女は母と同じ病気を患い、死期が近いことを知っている。
 しかし、そんな事情を思いやってくれる者ばかりとは限らない。リィリィを拷問していた兵士のように、偽者だと分かっていても、怒りをぶつけずにはいられない者が、今のこの国には多いのだ。
 彼らからリィリィを守り切れるか。
 リィリィは、苦渋の決断をしたのだ。
 それは彼女が、彼女の愛する者を守るためでもあった。
 セドリックには、せめて、リィリィを優しく抱きしめるしかできなかった。
 それがセドリックの、リィリィとの最後の別れだった。
 リィリィは、既に医師に頼み込んで、医師の知り合いの医師がいる診療所に行くことになっているという。医師もリィリィの固い決意を知っているようで、リィリィの望み通り、セドリックにすべてを話した後、医師が調達してくれた馬車で、ポルナレフ家を後にすることになっていた。
 セドリックとアーサーが今からポルナレフ家に戻っても、リィリィはもういないのだ。
 リィリィから聞いた話を伝え終えた後、暫くの間、三人は黙り込んでいたが、ふいに、アーサーがセドリックの胸倉をつかみ、壁に叩きつけた。
「アーサー!」
 ポルナレフが止めに入ろうとしたが、セドリックはそれを制した。自分の胸倉を掴むアーサーの手の力は強い。あと、自分を睨みつけてくるアーサーの顔もとても怖かった。
 だが、セドリックには、アーサーの気持ちが手に取るように分かった。名前も分からなかった彼女に名前を与えるほどに、彼女を慈しんでいたアーサーの気持ちを知らないほど、鈍感でもない。
 しかし――。
「アーサー……君の気持ちは、すこし、分かるつもりだ。だが、同時に、ぼくは、彼女の気持ちも、わかるんだよ。だって、彼女は、ある意味、ぼくなんだからね。彼女もぼくも、君には、傷ついてほしくない。ぼろぼろになってほしくない。無事でいてほしい。君が大事だからだ」
 アーサーの手の力が、一瞬緩んだ。
「勘違いしないでね? ぼくは別に君に告白しているわけじゃない。ただ、ぼくは君のことを大事な友人だと思っている。彼女は君を大事に思っている。そういう点では同じだというだけだ。ぼくは、彼女の気持ちを尊重したいと思う」
 セドリックは言葉を続けることに少し躊躇ったが、それがアーサーを傷つけることになると分かった上で、それでも言わなければいけないと、心を鬼にした。
「ねえ、考えてみなよ。もし、彼女がこのまま、君のそばにいれば、彼女を傷つけようとする者が出てくるだろう。君は当然、彼女を守るだろう。それを苦に思わないだろう。だけど、彼女はどう思う? 彼女を守るたびに傷つく君のそばで、彼女は幸せでいられると思うかい?」
 アーサーの顔が歪むと同時に、手の力が緩んだ。
 アーサーは暫くの間、俯いていたが、やがて、踵を返して、部屋を出て行った。
 セドリックもポルナレフも、それを黙って見送るしかできなかった。
「……戦争は、むごいものだな」
 力が抜けたように椅子に座り込んだポルナレフが、そう呟いた。
 全くです、と、セドリックも深く頷いた。


 ――結果を言えば、その後、戦争は終わり、新政府も無事に立ち上がった。
 リィリィがポルナレフ家を出て行った数日後、王とその家族が見つかったからだ。エレオノーラ王女も、当然、一緒だった。
 彼らは処刑されることになったが、その処刑を行ったのは、アーサーだった。
 必死に命乞いをする王達の首を、アーサーは、一人ずつ、粛々しゅくしゅくと斬っていった。
 その姿を見て、セドリックは、かつての彼はもういないのだと悟った。セドリックだけではない。ポルナレフも、「人が変わってしまったな」と、何とも言えない顔でセドリックにぼやいた。
 アーサーは、兵士としての活躍、冷静沈着な性格を買われ、新王の筆頭護衛になった。
 セドリックも、ポルナレフを手伝っているうちに、ポルナレフが新しい宰相になったので、そのまま、宰相補佐という肩書をもらう羽目になった。
 そうして二人三脚で新しい国を作り、安定化を図り、十年が経つと、どうにか国も立ち直った。
 その矢先だった。
 王を狙った暗殺者にアーサーが深手の傷を負った。
 知らせを聞いたポルナレフとセドリックは、仕事を放り出し、アーサーが運ばれた部屋へと向かった。
「アーサー!」
 寝台に横たえられたアーサーは、誰が見ても分かるほど、虫の息だった。
「……セド、か」
 セドリックのことを、アーサーはそう呼んでいた。修学院からの長い付き合いだ。長ったらしくて呼びにくいからと、いつからか、アーサーはセドリックのことをそう呼ぶようになっていた。
 セドリックは冷たくなっていくアーサーの手を、自分の温もりを与えると言わんばかりに、強く握りしめた。
 それでも、消えつつある命を留めることはできないと、セドリックも分かっていた。
 だから言った。
「アーサー……この馬鹿野郎。死ぬな。ただで死ぬな。ぼくが許さない」
「……は。無茶を、言うな」
「いいや。何としても聞いてもらう。いいか、君は絶対に生まれ変わる。今度も人間にだ。そして、彼女を見つけるんだ。そして、今度こそ、彼女と一緒に幸せになる。そうなると誓え。誓わないと、死ぬことは許さない!」
 セドリックの言う「彼女」が誰なのか、アーサーにも、ポルナレフにも分かったのだろう。だから、生まれ変わりなんて、と、誰も鼻で笑うようなことはしなかった。アーサーを診た医者――かつて、リィリィを診た医者だ――も。
 アーサーは、基本的には論理的な性格であるセドリックのらしからぬ発言に、力なく瞬いていたが、ふ、と、息だけで笑った。
「……無茶だな。……でも、そうなると、いいな。今度こそ、わらって……」
 最後まで言い切る気力は残っていなかったのだろう。アーサーは言い終わらないうちに、身体から力が抜けて死んだ。
 力が入らなくなったアーサーの手を、セドリックは、涙で滲んで見えない目で、どうにか、アーサーの胸の上に直した。
 そのまま立ち上がろうとしないセドリックの肩に、ポルナレフの手が置かれた。
「大丈夫だ。きっと、生まれ変わる。わたしも、そう信じるよ」
「……ありがとう、ございます」
 よい主を持ったと、セドリックは、改めて、自分の運の良さに感謝した。
 セドリックは、その後も、ポルナレフを手伝ったが、ポルナレフが引退した際、自分も一線を引いた。
 その後、よぼよぼのおじいさんになるまで、ある町の学校の教師を務めた。教え子たちが卒業するたびに、セドリックは彼らに物語を話した。言うまでもなく、アーサーとリィリィの話だ。彼らが出会った経緯、彼らが一緒にはいられなかった理由――。
「どうしたら二人が一緒にいられたのか、今考えてみても、わかりません。どうすればよかったのかも。ただ、一つ分かるのは、戦争は、ぼくたちから、大事なものをとことん奪うということ。戦争をしないためには、どうすればいいか。ぼくはそれを君達に考え続けてほしいと思っています」
 子供たちは、いずれ大人になり、これからの国を支えていく。
 セドリックはそれを見越した上で、自分が見てきたことを伝え続けた。
 それが功を奏したのかは分からないが、少なくとも、セドリックが教師を辞め、数年後に息を引き取るまで、戦争は二度と起きなかった。
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