夢幻恋奏

第三話 再会(1)

 自分は何のために生まれて来たのか。
 そんな陳腐な質問を投げかけられて、納得できる答えを返せる者がどれだけいるだろう。
 少なくとも、ノアは、自分が孤児として生まれ、孤児院とは名ばかりの醜悪な施設に拾われ、暗殺者として暗殺術を叩き込まれたこの十四年間、ただ死ぬことだけを願ってきた。
 ノアがいた施設は、孤児院とは名ばかりで、暗殺者を育てるところだった。だから、そこに入った男の子は、六歳から厳しい訓練を受けさせられた。ノアも例外ではない。あまりに厳しい訓練と、その訓練が人を殺すためのものだと知った者は、必ず心を病む。そうして死ぬ子供が絶えなかった。
 ノアは、幸か不幸か分からないが、厳しい訓練に耐え抜いた。
 ノアと同様に、厳しい訓練を耐え抜いた兄弟は、他に一人だけいた。セシルという名の、ノアよりも二つ下の少年だ。
 ノアやセシルと同様に、長い間、厳しい訓練に耐えてきた兄弟の最後の一人が死んだ日のことだった。訓練の途中で倒れ、そのまま死んだ兄弟の亡骸を、施設の管理人に言われるがまま、ノアとセシルの二人で、施設の裏庭に葬った後、セシルは泣いた。
「どうしよう……ノア」
 裏庭に手作りの墓標――といっても、名前を彫っただけの棒きれに過ぎないが――を立てるのは、これが初めてではない。少なくとも、ノアは施設に来てから、九人の墓標を立ててきた。
 その一番新しい墓標の前で、セシルは、泣き声を必死に殺しながら、それでも、感情を、本音を曝け出した。
「ぼくは、死にたくない。でも、殺したくない。人殺しになんて、なりたくない」
 この施設に入った子供達は、ここが孤児院だと言い聞かされる。そのため、それを疑わない子供達は、大きくなったら何になりたいと、自分に未来があると信じて疑わず、夢を見て、語り合う。セシルも、将来は学者になりたいと、他の兄弟や姉妹と一緒に夢を話していた。
 しかし、それも、訓練を受け始めるまでだった。
 兄弟は皆そうだ。訓練を受けるまでは、自分に未来があると信じて疑わない。だが、厳しい訓練を受け始めると、自分がそれに耐えられるか、不安になってゆく。それだけではない。自分が受ける訓練が、人を殺すためのものだと知ると、必ずと言っていいほど、絶望する。
 ただ、それでもセシルは、気丈に振る舞い続けていた。厳しい訓練に耐えている兄弟が、ノアのように、何人かいたからだ。セシルは、姉妹のいないところでは、彼らに、大きくなったら、ここから逃げようと、必死に慰め、自分も励ましていた。君も一緒だよと、ノアも彼に何度も言われた一人だ。
 セシルが本気でそう言っていたことは疑っていないが、それが叶うかどうかは分からなかった。いや、叶わないだろうと思っていた。人は弱いものだと知っていたからだ。人殺しになれと言われて、正気でいられる者が、どれだけいるのだろう。
 セシルがノアと同様に最後まで耐え抜いてこられたのは、ただひたすらに、彼も言っていた通り、死にたくなかったからだろう。
 ノアは、死にたくなかったというわけではなく、ただ単純に、最初から、人殺しの素質があったからだ。だから厳しい訓練もこなしてこられたし、他の兄弟のように心が壊れることもなかった。
 ただ、ノアにはひとつだけ、気がかりなことがあった。セシルのことだ。
 自分達は暗殺者になるべく育てられた。なら、自分達が大きくなれば、施設の管理人――自分達に訓練を施した当人でもある――は、ノアとセシルのどちらかに〈クモ〉を受け継がせるだろう。その前に、どちらか一人だけを残そうと判断するのは目に見えていた。その時、ノアとセシルは殺し合いをさせられるはずだ。
 自分にセシルは殺せるのだろうか。
 答えは否だった。
 なら、その前に、施設の管理人を殺すべきだろうか。
 いつ殺し合いをしろと言われるかと、管理人の動向を窺っていると、思わぬ出来事が訪れた。孤児院に寄付するという名目で訪れた貴族が、ノアのことを気に入ったのだ。正確には、父親と一緒に訪れていた娘が、だった。娘とはいっても、婚約者もいて、結婚も目前の十八歳の女性だった。
「まあ、あなた、とても綺麗な顔なのね。気に入ったわ」
 彼女はそう言うと、ノアが欲しいと、父親にねだった。ねだられた父親は、娘に甘いようで、早速、施設の管理人に掛け合った。管理人はあっさりとノアを売ることに同意した。
 管理人があっさりとノアを売ることにしたのは、セシルがいたからだろう。〈クモ〉候補は一人だけでいいはずだから、ノアとセシルを殺し合わせずに済むと思ったのかもしれない。自分の懐にお金が入ってくるというのもあるだろう。
 そうしてノアが自分を買った貴族のところへ行く日、セシルも、他の姉妹と一緒に見送ってくれたが、その時のセシルの顔を、ノアはきっと、死ぬまで忘れられないと思った。すべての希望を失い、絶望に彩られた、あの顔を。
 それを見て、ノアは決めた。
 自分を買った貴族の屋敷に着いたその日の夜、早速、娘がノアのいる部屋にやってきた。ノアは施設から馬車に乗ると、その馬車の中で、逃げられないよう、また、抵抗しないよう、手を後ろに回され、手錠をかけられた。屋敷に着いても解いてもらえなかったので、部屋に連れていかれても、ベッドの上で待てと言われても、ずっとそのままだった。
 部屋の中に入ってきた娘を見て、ノアは吐き気を堪えるのに必死だった。
 彼女は、おそらく自分の美貌に自信があるのだろう。客観的に見ても、彼女は整った顔立ちと、こまめに手入れの行き届いた身体を持っていた。その身体を隠そうとも思っていないのだろう、薄い生地で仕立てられたガウン一枚を羽織っただけだった。おかげで生地の下の肌が透けて見える。
 これから一体どうするつもりなのか、火を見るより明らかだった。
 顔を背けたノアのもとに、彼女はうっとりと笑いながら、近づいた。
「あなたは本当に素敵ね。一目見た時から、わたしはあなたが欲しかったの。あなたの心もそのうち手に入れてみせるわ。でも、その前に、あなたをちょうだいね」
 ノアの顔を両手で挟みながら、口づけようと顔を近づけてきた彼女は、しかし、途中で動きを止めた。それから信じられないという顔で、自分の腹を見下ろした。そこにはノアの手がめり込んでおり、その先から、血が広がり始めている。
「嘘……どうして……手錠を」
 ノアの手錠は解いていなかったはずだという彼女の疑問は、答えを返されることもなく、宙に消えた。
 ノアは彼女の腹に刺した武器を抜くと、絶命した彼女の身体をベッドの上に無造作に投げた。
 ノアの武器は、あの施設で与えられた特製のものだ。鍔のない短剣のようなものだが、短剣の形に似ているのかというと、そうでもない。しいて言うなら、縫い針を短剣の大きさにしたようなものか。大人の両手を合わせたような長さを持つそれなら、身体のどこにでも隠せるし、忍ばせることもできる。施設から出るとき、ノアはこの武器も持ってきていたのだ。はじめから、大人しく売られるつもりなどなかった。手錠も、この武器で壊して外した。
 一刻も早くあの施設に戻らなければ、と、ノアは、逸る気持ちを落ち着かせ、確実にこの屋敷から出られるために、どうすればいいかを考え、行動に移した。部屋の近くにいた者を脅し、出口まで案内させたのだ。口封じのためにその者の息の根も止めると、馬を拝借して、施設へと戻った。
 夜中の移動だったので、施設の管理人も気付かなかったのだろう。セシルへの訓練で疲れていたのかもしれない。いや、疲れもあるだろうが、油断が大きかったとしかいいようがない。
 おかげで、ノアは、本人に気づかれることなく、寝台の上で夢の世界の住人となっている管理人の喉笛を掻っ切ることができた。
 それからノアはセシルのいる部屋へと向かい、セシルを起こした。セシルは驚いていたが、ここに火をつけるから、すぐに他の姉妹達を起こせというノアの指示に忠実に従った。
 そうしてノアは、かつてセシルが願っていた通りに、轟々ごうごうと燃え盛る施設から、姉妹達と一緒に逃げたのだった。
 移動の足となる馬はどうするかという問題も、ノアはすぐに解決した。施設のすぐ近くに、馬を育てて売るところがあるのだ。ノアはあの屋敷から連れて来た馬に、まだ幼い妹達を乗せ、セシルや姉妹達と一緒にそこへ向かうと、屋敷や施設から盗んできた金で、必要な数の馬を買った。
 それからノアは、姉妹達をどこへ連れていくべきかをセシルと話し合った。セシルはノアがどうやって逃げてきたかは聞かなかった。セシルも、もし自分が同じ目に遭ったら、同じことをすると思ったからかもしれない。
 とりあえず、しばらくは適当な宿に泊まって、他のまともな孤児院に姉妹達を託していこうと決めたが、意外な異論があった。当の本人達である姉妹達から、みんな一緒じゃないと嫌だ、と、反対を食らったのだ。
「今までずっと一緒だったんだもの。これからも一緒じゃないと嫌よ。今更、他の知らない子達と仲良くやれ? まっぴらに決まってるでしょ」
 姉妹達の中で一番年長――といっても、この時、十四歳だったバーバラがそう言ったので、ノアもセシルも、考えを変えざるを得なかった。ノアはセシルに甘いという自負があるが、セシルもどうやら、姉妹達に甘いようだった。
 他のまともな孤児院を探すのではなく、いっそのこと、どこか、自分達をちゃんと保護してくれる、ちゃんとした肩書を持った大人の人を探そうか、と、セシルは言った。それなら、もう二十歳である自分が、何か仕事をして、それでセシルや姉妹達を養う方法もある、と、ノアは言ったが、セシルもバーバラも渋い顔をした。ノアだけに仕事をさせるのは申し訳ないからと。
 しかし、そうのんびりとこれからのことを考えていられなくなった。
 〈クモ〉が来たからだ。
 おそらく、ノアが売られた日、管理人は〈クモ〉に連絡を取っていたのだろう。次の新しい〈クモ〉が育ったから、その〈クモ〉候補と手合わせをしてほしい、と。そうしてセシルを新しい〈クモ〉にするつもりだったのだ。
 だが、ノアがあの屋敷から逃げ、あの施設から残りの兄弟達を連れて逃げ出したせいで、〈クモ〉はセシルに会うことができなくなった。元々、ノアは〈クモ〉にセシルを会わせるつもりはなかったので、向こうから来てくれたのは、逆に好都合だった。
 ノア達の泊まっていた宿に、頭巾を深く被った不審な男の人が訪れると、宿の一階にある食堂で食事をとっていたノアは、セシルとバーバラに、まだ食事に夢中な姉妹達を部屋に戻らせるようにと言ってから、頭巾の男性のところに近づいた。
 そうして二人で外に出ると、何の言葉もなく、殺し合いが始まった。
 結果を言えば、どうにかノアが勝てたが、深手の傷を負った。
 そんなノアを、セシルとバーバラは、宿の主である夫婦に、近くに医者がいないかと聞き、その医者のもとへ運んだ。
 それが何の縁だったのだろう、ノアが運ばれた先の医者は、あのポルナレフのお抱え医者だったのだ。
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