夢幻恋奏

第三話 再会(2)

 ノアは三日間、生死の境をさまよっていたらしい。
 というのも、次に目を覚ましたのは、見知らぬ部屋の中の寝台の上で、ノアに食事を運んできてくれた男の人がそう教えてくれたからだ。
 彼の名はセオドアだが、今のノアには、別の人物の姿も重なって見えた。この三日間、ノアは、夢を見ていた。いや、夢という形で、かつての自分の記憶を思い出していたのだ。それも三百年前の。
 自分がどうして生まれて来たのか、そして、今の自分がやったことがどういうことなのかを知ると、何とも複雑な気持ちになった。かつて、三百年前に、自分を殺した相手を、今度は自分が仕留めたとは。
 しかし、それを誰かに話したところで、誰も信じてくれまいと思ったところに、目の前に現れたのが、この男だ。
 ノアは空になった食器を差し出しながら、自分に料理を持ってきてくれた彼――セオドアを見やった。彼は茶色がかった黒髪を短く整えており、知的で穏やかそのものの顔立ちを持っている。緑色の目の上には丸っこい眼鏡がかけられており、彼の知性を演出しているかのようだった。三百年前の彼とそう変わらない姿に、安心していいのかどうか、ノアは判断が付きかねた。
 そんなノアに、セオドアは、さて、と、切り出した。
「初めまして、というべきだろうけど、ぼくと君に、それはないよねえ。だからこう言うよ。改めて、三百年ぶりだね、アーサー」
 アーサー。それはノアの三百年前の名前だ。
 かつて、侵略戦争ばかりを起こしていた王に反旗を翻し、新王の筆頭護衛となったものの、暗殺者に狙われて命を落とした、愚かな男の。
 そして、セオドアも、ノアの予想通りなら、彼にも三百年前の名前があるはずだった。セドリックという名前が。
 それを認めるのは癪な気がしたので、沈黙を守っていると、セオドアは構わずに続けた。
「ああそうだ、その前に言っておくことがあるんだった。君の怪我は、ちょっと深いけど、全部縫ったから、治るのにそんなに時間はかからないそうだよ。ただ、傷口が塞ぐまでは、激しい運動は控えるようにってさ。それと、君の――今の君の、という意味だけどね。君の兄弟達もみんな無事だ。あの宿から、ここに移動して、空いている部屋でのんびり過ごしてもらってるよ。後で顔を見せるといい。みんな、君を心配していたからね」
 セシルやバーバラ達が無事だと聞いて、ノアは小さく安堵の息を吐いた。人殺しの素質があると自負しているノアだが、それでも、一緒に育ったセシルや姉妹達に何の情も持っていないわけではないのだ。そうでなければ、わざわざあの施設に火をつけて逃げることはしない。
「さて、ここからが本題だ。ぼくはずっと、君を探していたんだよ、アーサー。いや、今の君はノアだから、ノアと呼ぶけれどもね。まあとにかく、ぼくは君を見つけた。いやあ、君を見つけるまで、なかなか骨が折れたよ。ぼくは君達と違って、生まれた時から記憶があったからね。だからといって、どうしろと? って、途方に暮れたよ。でも、ぼくが二歳の時に、近所で生まれた子がいるんだ。その子を見て、ああ、ぼくはこのために生まれて来たんだって、確信したよ」
 近所で生まれた子がいると聞いて、ノアは思わずセオドアを凝視した。
 セオドアも、その口元に笑みを浮かべて見せた。
「そう。今の君なら分かるだろう? 近所に生まれた子は、あの子の生まれ変わりだ。三百年前の君がリィリィという名前を与えた、あの子の」
「どうしてわかる。何の保証もないだろう」
「あるよ」
 三百年前の誰かの生まれ変わりだということが、ただでさえ、大人でさえも信じ難いようなことなのに、それが誰の生まれ変わりだなどと、何の保証があってそう言えるのかというノアの反論に、セオドアは、確信を持った笑顔で言い切ったのだった。
「魂がそう言っている」
 己の胸元に拳を当ててそう言ったセオドアに、「君の魂はどうだい?」と聞かれて、ノアはしかめっ面になった。それを否定できない自分がいることに気づいたからだ。
 聞かれるまでもなく、セオドアを見た時から、ノアは、彼が三百年前のセドリックの生まれ変わりだと分かった。どうして分かるのかと聞かれれば、やはり、セオドアの言う通り、魂がそう告げているからなのだろう。三百年前の友人が、今目の前にいるのだと。
 否定したくとも否定できない様子のノアから、彼も確信しているのだと分かったのだろう、セオドアは愉快そうに小さく笑い声を上げた。
「まあ、そうしかめっ面にならなくてもいいじゃないか。少なくとも、君達は、ぼくが三百年前に願った通り、また生まれ変われたわけだ。今度もちゃんと人間にね。そして、今度は、ちゃんと幸せになれる」
 幸せに、と聞いて、ノアは喉元に刃を突き付けられたような気分になった。
「……なれるわけがない。俺は、人を殺した」
「知ってるよ。セシルから全部聞いた。彼は優しい子だね。今までに亡くなった兄弟達のことも、君のことも、等しく思いやってくれている。ありがたいことだ。そしてそれは、君が悪い大人達から守ってくれたおかげだ。そうだろう?」
 言いながら、セオドアがノアの頭を撫でて来たので、やめろ、と、ノアはセオドアの手を遠ざけた。三百年前にも、こんな風に、彼に子供みたいに撫でられたことがあったと思い出し、先程よりもしかめっ面になった。
「それに、忘れていないかい? 幸せになる権利は君だけじゃなく、あの子にもある。君は、あの子が幸せになるのを見たいとは思わないのかい?」
「……それは」
 痛いところを突かれて、ノアは口を噤んだ。
 セオドアは畳みかける。
「あの子は三百年前と同様に、幼い頃に母親を亡くしている。それでも、前を向いて生きてきた。お父さんとお兄さんがいるし、ぼくの姉も、あの子に愛情を注いできた。ぼくも、ぼくなりに、あの子を可愛がってきた。その甲斐あって、あの子は強い子に育ってくれたよ。いやあ、子供が大きくなるのは早いねえ」
 何を思い出しているのか、感慨深そうに涙を拭って見せてから、セオドアは、再度、ノアをまっすぐに見つめた。
「アーサー。あの子はもう、三百年前のあの子じゃないよ。とても聡明なのは三百年前と変わらないけど、それだけじゃない。とてもしたたかな子だ。そして、彼女が誰と幸せになるかは、彼女が決めることだ。君じゃない。忘れないでほしいね」
 とにかく会ってみることだ、と、セオドアに押し切られる形で、話は終わった。
 ノアの怪我がある程度治るまで、ノアは診療所にいたが、その間、セオドアは話を進めていたらしい。セオドアはポルナレフ家と交渉し、ノア達をポルナレフ家で保護する約束を取り付けたのだ。
 これも後でセオドアから聞いた話だが、ポルナレフ家は、代々、前当主から新しい当主へ、セドリック、アーサー、リィリィの話を語り継いできたらしい。そして同時に、彼らの生まれ変わりが現れたら、躊躇いなく協力するようにと言い聞かせて来たそうだ。そのおかげで、ポルナレフ家の現当主は、セオドアが急に訪れても驚かず、むしろ諸手を挙げて歓迎したという。あんなに歓迎されるとは思わなかったよ、と、セオドアは苦笑していた。とにもかくにも、ポルナレフ家の協力のおかげで、ノア達の新しい住まいもすぐに決まった。ポルナレフ家のご先祖様が、いつぞや、息子夫婦のために建てた、こぢんまりとした屋敷が領地の中にあり、今はその屋敷は空いている。その屋敷がノア達に提供されることになったのだ。
 こぢんまりとはいえ、それはあくまでもポルナレフ家――貴族にとっての感覚の話で、元孤児であるノア達にとっては、とても大きくて立派な屋敷に違いない。こんな立派なところに住んでいいの? と、セシルもバーバラも恐れおののく横で、姉妹達は新しい住まいに興奮しきりだった。
 しかも、ポルナレフ家は、ノアに仕事を提供する他にも、セシル達の養育を買って出てくれた。バーバラと姉妹達はまだ若いし幼いので、大人になるまでは、食費諸々の生活費も面倒を見てくれると申し出てくれたのだ。つまり、セシル達の義理の親になるということだ。一緒には住まないという条件つきだったが、それはお互いにとって願ってもないことだった。ポルナレフ家は貴族だ。養子とはいえ、貴族の子供になるとなれば、様々な義務がついて回る。そんな重圧はないほうがいいだろうという配慮がされた結果だった。
 どうしてそこまでしてくれるのだろう、と、セシルやバーバラが戸惑ったのも無理はない。セオドアが彼らに、〈クモ〉を育てるために手を貸した貴族がひとつやふたつではないこと、〈クモ〉を潰すことは、ポルナレフ家にとっても、ひいてはこの国にとっても、少なくない利益があることを説明してくれなければ、新しい生活はすんなりと始められなかっただろう。
 新しい住まいである屋敷には、姉妹達の他に、セオドア、それに、ポルナレフ家の侍女もふたり、入ることになった。ノアの姉妹は全部で四人いるが、うち一人は赤ん坊だ。三人の姉妹の世話はセシルとバーバラができるとしても、赤ん坊の世話はやはり大人の手がいる。それに、子供達のそばには、やはり大人がいたほうがいいという、これもポルナレフ家の配慮だった。
 ノアはポルナレフ家の当主の護衛を任されることになり、セオドアは、近くの学校で教鞭をとることになった。セシルはセオドアに勧められて、執事の勉強を始めた。バーバラもセオドアに勧められて、午前中だけは、セオドアの勤める学校に通うことになった。あの施設にいた頃、ノア達はまともに教育を受けられなかったためだ。
 そうして新しい生活が始まり、二年が過ぎ、赤ん坊だった末の妹も二歳になった頃、ポルナレフ家から来てくれた侍女のうち年長の侍女が、腰を痛めたからと、辞職を願い出た。
 セオドアは、彼女に一週間ほど待ってくれと頼み、学校も休みのときに故郷に帰ったようだった。
 この頃、ノアも、ポルナレフ家の当主が用事で隣国へ行くことになったので、それについていくことになり、セオドアと同様に、一週間ほど留守にすることになった。
 そうして一週間が過ぎ、ノアが帰ると、彼女が来ていた。
 心臓が止まったと思った。
 君も分かるよ、と、セオドアは言っていた。会ったら分かる、と。
 しゃくなことに、まさにその通り、ノアは彼女がそうだと分かった。
 魂が、全身全霊が、彼女が、三百年前に恋い焦がれた彼女そのものだと、大声で叫んでいる。
 と、ふいに、彼女がこちらを振り返った。
「ああ」
 ノアを見た彼女は笑った。
 花開くような笑みだった。
「やっと、会えましたね、ノア」
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