夢幻恋奏

第三話 再会(3)

 セオドアが新しい人を連れてくるからと、休みを取ってどこかへ帰ったとき、バーバラがまず考えたのは、新しい人はどんな人なのかということだった。妹達――上から順に、ミラ、メイ、ベル、リン――も同じことを考えたが、妹達はと言えば、セオドアが連れてくるという新しい人に全く警戒を持っていないようだった。仲良くしてくれるかな、いっぱい遊んでくれるかなと、もっぱらそのことばかりだった。
 考えないといけないのはそういうことじゃないだろう、と、バーバラが呆れたのは言うまでもないが、同時に、まだ幼いのだから無理もないか、とも思った。バーバラは今年で十六歳になるし、ミラは十二歳、双子であるメイとベルは八歳、リンはまだ二歳だ。
 バーバラ達には上にも兄が二人いる。兄と言っても、血の繋がりはないが、同じ施設で育ったのだから、兄には変わりない。妹達も同じだ。
 バーバラは、兄が、二人とも、かつて、自分達がいた施設で、厳しい訓練を受けていたことを知っている。その厳しい訓練のせいで、他にも大勢いた兄弟が死んだことも。それが何のための訓練なのかを知ったのは、ノアが貴族の娘に売られて、その貴族の屋敷から戻ってきた時だった。その時、ノアは服に返り血を浴びていた。悟らないわけがない。
 それでも、バーバラは、ノアのことを嫌いにはなれなかった。ノアがどうして戻ってきたのか、それはノアにとって弟であるセシルや、妹であるバーバラ達を、あの施設から連れて逃げ出すためだったからだ。もしノアがバーバラ達を連れて逃げてくれなければ、バーバラも、ノアと同じように、どこぞの貴族へ売られていただろう。
 バーバラもさすがに馬鹿ではない。あの施設にいた、かつての姉達が、どんな貴族に売られていったのか、ずっと見てきたのだ。姉達は手紙を書くと言ってくれたが、一度も手紙が来たことはない。最悪の事態が起きたこともあるかもしれないが、一番の理由は、手紙に書けるようなことがないからだろう。
 自分も大きくなれば、姉達と同じ目に遭う――それを悟った時、ノアが売られていった時のセシルに近い気持ちを抱いた。嫌だと思ったが、かといって、どうすればいいのかも分からなかった。あの施設から逃げたとしても、どこでどうやって生きていけばいいのかわからなかったからだ。あの施設では、まともな教育も望めなかった。今考えてみれば、バーバラ達に教育を受けさせなかったのは、逃亡防止のためでもあったのだろう。つくづく、ろくでもない施設だった。
 ノアには感謝してもしきれないし、そのノアを探していたからと、セオドアが自分達を保護することを買って出てくれたことにも感謝している。セオドアが自分達の保護を求めたポルナレフ家にも。
 ポルナレフ家も貴族ではあるが、バーバラ達が毛嫌いしているような貴族ではなく、むしろ、そういった貴族たちにとっての天敵のようなものだからと、セオドアが説明してくれなければ、ポルナレフ家の申し出を素直に受け取れたかどうかも分からない。
 ただ、正直に言えば、ノアとセオドアの関係がよく分からなかった。二人は、ノアがポルナレフ家お抱えの医者が運営している診療所に運び込まれたときに、初めて会ったはずだが、そうではない雰囲気があるのだ。ノアがセオドアを全く警戒していないからというのもある。
 そう、ノアは、あの施設にいたからだろう、家族以外の相手には必ずと言っていいほどに警戒するし、迂闊に近づけさせることもしない。それはセシルやバーバラ、妹達も同じだ。初対面の相手には警戒心を持つ――あの施設で育ったゆえの悲しい性といってもよかった。
 それなのに、ノアは、セオドアにすぐに気を許したようだった。
 それはバーバラだけでなく、セシルにとっても驚きのようだった。
「ノア、あの人に前に会ったことがあるの?」
 ポルナレフが提供してくれた屋敷で過ごすようになってから、少し経った頃、夕食をとっていたときに、セシルがノアにそう聞いたくらいだ。ノアは、いや、と、首を横に振った。やはり、診療所で会ったのが初めてらしい。
 それなのにすぐに気を許したのはどうしてなのか――どこかで会ったから、知っている相手だからとしか思えないのだが、ではどこで知り合ったのか。それとも、勘で、信用できると分かったのだろうか?
 バーバラも聞き耳を立てていることに気づいたのだろう、ノアはバーバラのほうをちらりと一瞥すると、小さく息を落とした。
「あいつは信用できる。それは確かだ。安心していい」
 その理由を聞きたかったのだが、それ以上食い下がっても話してくれそうにないと分かったのだろう、セシルは、うん、と、頷くだけに留めた。
 バーバラは、いつか、ノアがセオドアを信用できると断言した理由を絶対に突き止めてやろうと思った。気になることはとことん突き止めないと気が済まない性格なのだ。
 けれども、その機会はついぞないまま、二年が過ぎた。あの施設から出た時、赤ん坊だったリンも、すっかりおませな二歳になった。
 その矢先、バーバラ達と一緒に過ごしていた、寮母のような存在でもある年長の女性が、腰を痛めたからと、辞職を願い出た。そろそろおいとまするかもしれませんと、申し訳なさそうに言った彼女に、セオドアが、一週間ほど待ってほしいと頼んだ。新しい人を連れてくるからと。
 ノアはセオドアを信用できると言ったが、セオドアが連れてくる人のことも、果たして信用できると言うのだろうか?
 ただでさえ、自分達は、訳ありの施設にいたのだ。幸い、ノアが自分達を連れて逃げてくれたおかげで、自分達の誰も、悲惨な未来を迎えずに済んだが、あの施設と関わっていた貴族が、自分達を諦めていないとも限らないのだ。そのくらいはバーバラにも分かる。
 はたして、新しい人とやらが、悪い意味で自分達にお近づきになろうとしていないかと、バーバラは警戒していた。
 セオドアの言う一週間の最後の日、いつものように、屋敷の裏庭で遊んでいると、夕食の時間になっても、妹がひとり、戻ってこなかった。その妹の双子の姉であるメイが、夕食の時間だと知らせるために、屋敷から出てきたセシルに泣きついてきた。
「セシル、どうしよう。ベルが見つからないの」
「見つからない? 何かあったの?」
 バーバラも、不安そうな他の妹達を宥めながら、セシルに説明した。
「今日は、みんなでかくれんぼや鬼ごっこをしてたの。あたしが鬼だったんだけど、でも、いくら呼んでも、返事がないの。どこかで怪我してるかもしれない」
 ポルナレフ家に保護されてからは、新しい生活に慣れるためにと、屋敷の周りを少しずつ教えられた。ここまでは大丈夫、でもここから向こうは行ったらいけないということを知らなければ、ポルナレフ家に迷惑がかかるからだ。もし、ポルナレフ家に大事なお客様が来ている時、うっかり向こうに足を踏み入れてしまったら、お客様に不快な思いをさせるかもしれない。
 そういうわけで、すこしずつ、ここまでは大丈夫ということを覚えていき、全部覚えた頃から、安全圏のすべてを使って遊び回るようになった。当然、ポルナレフ家の領地はとても広いので、バーバラ達に許された安全圏もかなり広い。
 その広い範囲をくまなく探し回ろうにも、もう日が暮れかけている。暗くなるのもあっという間だ。それに、人手も限られている。今はノアもセオドアもいないのだ。もうひとり、寮母的存在の人もいるが、彼女は屋敷の留守という役目がある。幼い妹達だけを屋敷に残して、彼女を引っ張り出してくるわけにもいかない。
 セシルとバーバラだけでベルを見つけられるか、と、お互いに不安な顔を突き合わせたところで、「あれえ」と、場違いにも思えるのんびりとした声が飛び込んできた。
「こんなところでみんな揃って、どうしたの。もう夕食の時間だろう」
「セオドア!」
 一週間ぶりの姿を見つけて、真っ先に駆け寄ったのはミラだった。ミラは妹達の中で一番臆病な性格だが、その分、一度気を許せば、あっという間に甘えん坊になる。
 その時、バーバラは、セオドアの後ろにもう一人、人がいることに気づいた。セオドアよりもいくつか年下らしい女の人だった。肩にかかるかかからないかの髪は、いかにも甘そうな桃を思わせる桃色だ。同性であるバーバラから見ても、可愛い顔立ちで、何よりも目を引いたのは、その瞳だった。淡い青紫色のそれは、宝石のように綺麗で、今にも消えそうなのに、決して消えないのが不思議にも思えた。
 思わず見惚れていたバーバラだが、セオドアの声で我に返った。
「ベルが帰ってこないのか。困ったねえ。でもまあ、ちょうどよかった。カノン、頼まれてくれる? 君なら一発だろう」
 セオドアに言われて、カノンと呼ばれた彼女は「簡単に言ってくれますねえ」と、小さく笑った。
「いいですよ。そのベル? どんな子なんです?」
「この子と同じ顔」と、セシルは、涙目になっているメイの頭をぽんと叩いて見せた。
「分かりました」
 そのやり取りの後、セシルに「明かりを借りてもいいですか?」と、ランタンを借りてから、カノンと呼ばれた彼女は、すたすたと、何の躊躇ためらいもなく、裏庭のほうへと向かっていった。
 そんな彼女を見送ってから、セシルは我に返ったように、セオドアを見やった。
「セオドア、いいんですか? 彼女一人だけで。もうすぐ日が暮れるんです。ぼくたちも一緒に探したほうが――」
「それには及ばないよ。彼女一人だけで十分だ」
 セオドアの服の裾を引っ張って、「だっこ」とねだってきたリンを抱き上げたセオドアは、一様に不安そうな顔を向けてくるセシル達に苦笑した。
「そんなに心配しなくていいよ。あの子はね、耳がとてもいいんだ」
「耳?」
「そう」
 その後、セオドアが話してくれたことは、驚くようなことだった。
 セオドアはアステルマという村で生まれ育った。カノンも同じだそうで、「あの通り、可愛い子だから、年頃になると、同い年の男の子が、付き合ってほしいって、カノンに言ったことがあるんだよねえ」とのことだった。
 しかし、カノンは、付き合ってほしいと言ってきたその彼を断ったのだという。なぜかというと、カノンは、以前、彼が、カノンの家族について悪口を言っていたのを聞いたからだ。カノンには父と兄がいるが、どうやら、兄のほうに、カノンに紹介してほしいと頼んだことがあるようだった。兄にも断られたそうで、そのことについて文句を言っていたのを、カノンは聞いたのだった。
 驚くべきは、そのカノンの耳の良さだった。
「彼は、カノンからとても離れたところで話していたんだよねえ。カノンは家の外で作業をしていたんだけど、彼が話していたのは、そのカノンの家から二つ家の隣だ。かなり距離はあるのに、カノンには聞こえていたというわけさ」
 それまではカノンの耳の良さは家族しか知らなかったが、その時がきっかけで、村の住民たちの知るところにもなったというわけだ。
「家族の悪口というだけでも胸糞悪いんです。人の悪口を言うような人に、ときめくと思います?」
 付き合ってほしいと言ってきた彼に、カノンは満面の笑顔でそう言って断ったのだそうだ。
 それがきっかけかどうか分からないが、村では、人の悪口を言う者はぱったりと見なくなったというのだから、恐ろしい。
 先ほどとは別の意味で、怯えたような顔を向けてくる子供達に、セオドアはまた苦笑した。
「そう怯えなくても大丈夫だよ。カノンはいい子だ。まあ、これから一緒に過ごすことになるから、そのうちにわかるよ。――ああ、ほら、戻ってきた」
 セオドアがそう言った通り、裏庭のほうを見てみれば、メイと同じ顔の子――ベルを大事そうに腕の中に抱えて、こちらへ近づいてくるカノンの姿があった。
 裏庭に入っていったのはつい先ほどのことなのに、本当にセオドアが言った通り、一発でベルを見つけたのだ。
「ベル!」
 片割れの姿を見て安心したのだろう、メイが真っ先にカノンのところに駆け寄った。そんなメイに、安心させるように、カノンは笑いかけた。
「遊び疲れて眠ってしまったようですね。木の上にいましたよ」
「ほんと? ああもう、心配かけないでよ」
「心配をかけるのも、子供の仕事のようなものですよ」
「そんな仕事、しなくていいと思う」
「ふふっ」
 カノンの言葉にメイが真顔で返したのがおかしかったのだろう、カノンは小さく笑い声を上げた。
 ベルが見つかったことに安心しながら、お腹空いた、と、妹達と一緒に屋敷の中に戻ったバーバラは、そのまま食堂には向かわず、肌寒かったので羽織っていた上着を置いておこうと、あてがわれた部屋に向かった。
 この屋敷に来てから、バーバラをはじめ、ノア達は、初めて、自分の部屋を持つことができた。最初は喜びよりも戸惑いが大きかったが、今はもう慣れた。この部屋から出ていく日がいつか来るのだろうな、と思いながら、バーバラは、いい匂いのする食堂へ向かうために部屋を出た。
 その途中のことだった。
 バーバラは、食堂に向かう途中の廊下の窓から、カノンを見て、雷に打たれたように立ち尽くすノアを見た。
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